朧なる月の如く【1】
05
「まだ戻られない?」
それはあくまで抑制された、聞き手にまずは確かな理性や鋭い知性を感じさせる声音であった。丈高き偉丈夫の風情は、如何にも毛色の良い能吏然としたものだが、感情を読ませぬ一瞥に思わず背筋を正した若い衛士は、拱手して答えた。
「は…公子様には、昼前に外出されましたまま」
「――――」
静けき威容に気圧された相手を余所に、司馬懿は黙した表情を曇らせた。その立場も挙措も容貌も、否応無しに衆目を惹く彼の公子が、衛士に見咎められず城門を出入り出来るとは考え難い。秘密裏に抜け出す手段ならば確かに幾らもあろうが、公然と出立した以上は今更な隠密行動など無意味であり、一貫性の無い行動を嫌う曹丕にはらしくないことだ。ならば実際、この直に陽も沈もうと云う時刻にあって未だ、城外を駆けていると考えるのが妥当であろう。司馬懿の眉間に刻まれた険が、気遣わし気に深くなる。
夕刻に、と。
気軽な調子で与えられた約束ではあった。無論、曹丕と交わすどんな些細な約定も司馬懿にとっては須く至上の命題であり、同時にそれらは全く主の気紛れ次第で反故にされるもしばしばではあるのだが、それでも事前に何の触れもせず突然――などと云う事態は常に無い。刹那、漠然とした不安を覚えながら、司馬懿は上げた視線で遠方を見据えた。
「…馬を借りる。西に向かわれたのだな?」
「は、はいっ」
慌々と差し出された轡を取るや、司馬懿は殆ど彼が可能な限りの速さで馬を走らせた。次の関まではほぼ街道一本、彼方から戻る騎影と行き違う心配は無い。尤も曹丕が別方向にまで足を伸ばしているなら遭逢は叶わぬだろうし、無為に駆け疲れて戻ってみれば、或いは疾うに帰還済みの主はむしろ頗る不機嫌、と云った類の結末は充分に予想出来る。どちらにしても無駄な杞憂と、彼のひとはあっさり素気無く切り捨ててくれる事だろう。ならばそれで良い。それならば。揶揄も叱声も、ただ立ち尽くし呆けて待つよりずっとましだ。
(――…何とも、)
必死なことだ。
生来の沈着さなど欠片も無く、すっかり取り乱した己をけれども、司馬懿は巧く自嘲
(あの方は、いつまでも御身の至尊を自覚して下さらない)
天下は何
無論それは曹丕も充分に承知している筈で、周囲の――とりわけ偉大なる父の期待に応えるべく研鑚精進し続け鍛え磨かれた己の資質、能力に対する自負や矜持は当然のことながら、確かに有していた。自身を不必要に卑下する様な行為など、曹丕が備える怜悧な聡明さとは全くもってかけ離れた暗愚である。
しかしながら才気溢れるこの誇り高き公子が同時に、自ずから顧ること甚だ少な過ぎると云う事実を、司馬懿は幾度か目の当たりにしてきた。殊更に軽んじている訳では無い。ただ自己を労わる事、或いは他者の好意や庇護を甘受する事に、曹丕は慣れていないのだ。
例えば、華奢な背中を不意に抱きしめる。包み護るが如くに、優しく触れてみる。是認の微笑か咎過の制裁か――返る反応は全くその折、曹丕次第ではあるのだがどちらの場合にせよ、振り仰いだ主の瞳に宿る感情を、見逃せる司馬懿では無かった。おそらくは戸惑い、驚惶にも似た。刹那の揺らぎはいつでも、切なく掻き毟る様な衝動を司馬懿に齎す。
足りないのか。届かないのか。
何処か躊躇いがちにそっと、委ね与えられる感触。恍惚と至福に酔いながらも、司馬懿の心中には、己の不甲斐無さを呪う気持ちが在るのだった。出逢ってからまだ、やっと幾年。敢えて急く必要は無いのかもしれない。けれども司馬懿は一日でも早く、曹丕があんな表情をせずに済むよう願っていた。司馬懿が曹丕を想う様に、もし出来るならそれ以上に、自分自身を慈しんで欲しかった。どうか、どうかもっと―――
「―――…っ!」
一瞬。不規則に乱れた馬足に平衡を崩しかけて突如、司馬懿は我に返った。思念に耽る余りに、操馬が疎かになっていたらしい。慌てて手綱を引き絞り、体勢を立て直す。人馬の呼吸を何とか整え、朱に染まる天をやれやれと仰いだ司馬懿は、今度は短く苦笑した。主の神技と比ぶべくも無いのはまあ当然だが、落馬と云う不名誉くらいは是非とも避けたいものだ。そもそも、周章が過ぎて地に足も碌に着かぬ様な体たらくでは、恋う人を支える資格など無いではないか。
(…まずは、私が出来る事から。誠心をもって果たし捧げるしかない、か)
とりあえずはこの機会に今一度、重々お諌めしておかなくては。
少しでも平静を取り戻すべく、細く長い息をひとつ吐き出してから、司馬懿は鐙を軽く蹴りつけた。
June 03, 2007 | 11:40 PM