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朧なる月の如く

『朧なる月の如く』

三国志魏国、司馬懿×曹丕。
お約束の記憶喪失ネタ、ある意味微ショタにつき要注意。
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May 19, 2006 | 12:41 AM

朧なる月の如く

00


 暗い。


 どうしてこんなにも暗いんだろう、今夜は朔ではないはずなのに。

 ぼんやりとした光はまったく視界の助けにならない、
 闇と混乱と、恐怖をはらうには弱すぎる。


 ―――ああ、これでは。


 たまらなくて振り仰いだ、そらの灯りは舞い上がる砂と、汗血にひどく霞んで。

 これでは駄目だ。見えない、見つけられない。
 焦燥に絶望に、眼は眩むばかり。



 ああ。

 どうか。
 どうか教えて。誰か。




 あのひと は。






May 21, 2006 | 12:49 PM

朧なる月の如く

01

(――畜生め)

 足元に転がる幾つめかの死体。またしても己が手下てかのものと知って、馬上の男は悪態と唾を荒々しく吐き出した。

 中原の覇者・曹操がその本拠地をギョウに定めると同時に、世間の衆目も当然のように北へと遷ったが、漢王朝の帝が居しているここ許昌は未だ、都としての盛栄を如何にか保ち続けている。自然、許都を出入りする商人や旅人に羽振りの良い者達が多い分、それらの荷を狙う賊や野盗などもまた少なからず、男の率いる一群もその類であった。精兵をもって知られる曹操軍による掃討と武威により、各々の規模は細々としたものだが、それでも不逞の輩を完全に根絶するには至らないあたり、やはり乱世と云うことだろう。

 警守堅固な城壁からいくらか離れたこの辺りは、彼らにとって絶好の仕事場であり、狩場であった。武装や護衛の不十分な寡勢を狙い、残らず略奪する。金も女も命も、何もかも。野盗の頭たる何某なにがしにすれば、飯でも喰らうと殆ど同義の、それはごく日常的な行為に過ぎない。だから今日、無謀にも平装で駆けゆくその単騎を襲うと決めた時も、むしろほんの些細な退屈凌ぎのつもりで。…その、筈が。

(あんな孺子こぞうが、何であんなに手強い?)

 遠目にも華奢な若造だった。地味ではあるが上質の衣帯、武器と云えばただ一振り、細身の剣を帯びただけの。これで十分と最初に送り出した三騎が、抜き打ちに斬り捨てられた光景は未だに信じ難い。男の身にすれば無理もないだろう。有り得ない話だ、何事もなく馬首を翻す涼しげな背中、一瞬の忘我の後に総勢で追うも囲みきれず、林に逃げ込まれては各個に撃破されるがままの、こんな惨状は。

(……畜生、このままでは)

 拙いことになる。何某は舌打ち、苛苛と馬を脚踏ませた。あんな荷も持たぬ単騎ひとつ、たとえとり逃がしたところで金銭的には然程の損にもならない。しかしそんな取るにも足らぬ単騎ごときに、迂闊にも何人かの命を既に浪費した後であり、このまま成す術もなく逃げおおせられでもすれば、首領としての沽券に関わる。…否、面目程度で済めばまだ良い方だ。所詮は賊徒の集団に、信義や忠誠などが存在する筈もない。男がこの群れで頭目の立場にあるのはひとえにその荒くれた腕と、或いは手下の使い方に幾らかの長があるとともかくも看做されているからであり、その見込みが揺らげばすぐにでも追い殺されてしまうだろう。それは不文律の理のようなもので、現に今、背後に立つ手下どもの視線は、刻一刻と不穏さを増すばかりだった。

(――畜生、が!)

 如何やらこの期に及んでは、男の運命は全く、誰とも知らぬ若造の命次第と決まったようだ。忌々しいことだが。それにしてもあの孺子の、神業のような馬捌きはどうだ。若輩と軽んじたが、相当の場数を踏んでいるのかもしれない。しかしそれでも、地の利はこちらの方にある。手練れを相手に幾らかの無理は避け難いだろうが、どちらにせよ他に是非もないのだ。

 殺るか、殺られるか。押さえ難い焦燥と苛立ちに面を歪めてまたひとつ唾を吐くと、男は役にも立たぬ骸を蹄で蹴り除けた。


| 08:16 PM

朧なる月の如く

02

(――…浅い)

 利き腕を一合で斬り潰され、馬の背から転がり這いつくばる相手を、切れ長の瞳がちらりと見下ろした。無感動な視線はすぐに逸らされ、一瞬後には駿馬の蹴散らす塵だけがただ舞い残る。この追手にとって幸運なことに、戦意を喪失しきった小悪党程度、敢えて止めを刺す必要もないと判断したらしい。既に十名だかそれ以上か、あっさり屠り除けた痩身の若者は豪胆にも、この煩わしい作業に飽きすら感じ始めていた。

(潮時、だな)

 胸中で呟く、白面の秀麗さはちょっと類がない。涼やかな挙措と合間って典雅と賞すべき程であるが、こんな時でさえ些かの乱れも表さない分、今はむしろ怜悧を超えた冷酷さが勝る。その風体からして大身貴族の子弟であることは一目瞭然、けれど行く手に幾重も覆い被さる筈の木立を苦にもせず馬を駆る様は、何とも尋常ではなかった。騎馬の妙技も鮮やかに鋭い太刀筋の疾さも、事に際しての駆引きも度胸も全く似つかわしくない程に武人のそれであり、いっそ儚げな風情に秘した驚くべき実力を野蛮な無法者どもが侮り惑わされ、瞬殺されるのも道理であろう。実際、けちな盗賊ごときに想像にも及ばない、苛烈な運命を彼は負って生きている。

(否…遊びが過ぎたか)

 滑やかな頬を淡色の髪に嬲らせながら、思い返せば愚かな己の酔狂を、曹丕は嘲笑わらった。

 思いもかけず鬱蒼と、起伏の激しい林中。こんな悪路ですらまるで更地同様に疾駆してみせる技量をもってすれば、 たかが野盗の数騎程度、些かの接触も許さず引き離して帰途に着けただろう。ならば本来無用のこんな殺戮劇は全く軽率な愚挙であると、曹丕の明晰な理性は無論、十分に弁えている。しかし危険かつ物騒なこの「遊戯」に臨んで軽く笑い飛ばすことが出来るだけの自信と戦歴、獰猛な牙をもまた、この公子は合わせ備えていた。あたかも多勢に追い込まれて逃げる風を装いながら、今この瞬間、狩人は紛れもなく曹丕の方なのである。

挿画アリ


May 23, 2006 | 09:54 PM

朧なる月の如く

03

 梢の切れ間に傾く日輪。
 その位置方向と予め目算した林の規模、周囲の樹木相の変化から、最深を抜けてそろそろ外周も近いようだ。多勢に無勢、身を隠しながら効果的に反撃する為には他に仕様が無かったとは云え、随分と遠回りをしたものである。弓の用意でもあれば平地での応戦も容易だったが、墓参にゆくのに弓矢も無かろう。
 正確には、墓そのものを訪ねた訳ではない。許は曹丕が幼少時より過ごした都であり、今は亡き彼のひととの思い出が其処彼処に遺る特別な場所である。だから毎年この時期この日には、曹丕は一人で許都へと戻り、過日を偲ぶことにしていた。とは云え今年は全く予想外に、殺伐極まりない仕儀となった訳なのだけれど。日頃の行いが悪いとでも云うことか、などと、馬上の公子は全く飄々としたものだ。

(或いは、)

 血の臭いに酔ったのかも知れない、今ではもう随分と遠いあの日の――あの、夜の。

(嘗ての無力を今更、埋め合わせようとでも?)

 容の佳い唇が刹那、自嘲に歪む。到底贖い得る訳が無い。全く無意味な、殆ど八つ当たりの腹癒せに過ぎぬと充分に解っている。居合わせた賊どもにすればいい迷惑だろうが、元より斟酌してやる義理など曹丕には無かった。仕掛けたのは彼方なのだ。

(――あれが知れば、怒るな)
 
 常ならともすれば離し難い様な、背中をふと思い出す。今ばかりは司馬懿が此処に居なくて良かったと、曹丕は知れず肩を竦めた。


February 27, 2007 | 09:48 PM

朧なる月の如く

04

 この微行に供は連れぬと、ずっと前から決めていた。

 それは誠実な忠臣を得てからの数年間も変わらなかったが、今回の許都入りには初めて司馬懿が同行して来ている。尤も、目下曹操の命で働く司馬懿は別件で許都に用があった訳で、曹丕の方でも滞在の目的を話してはいなかった。今日こうして城外を出歩く予定も伝えていないから、よもやこの瞬間に主が単騎戦闘状態にあるなどとは、流石の司馬懿にも想像出来ないだろう。もし知れば、警備の精兵辺りを首尾良く借り出し、直ちに殲滅作戦でも開始したに違いない。そもそも供も付けずに遠出など、司馬懿に話せば強硬に反対しただろうから、こんな火遊びは実現しなかっただろうが。

(…それとも)

 密かな巡礼に重ねた想いを、語ってしまえば。司馬懿は無茶も無謀もある程度、赦すのだろうと曹丕は解っている。せめて己だけでも随行をと、そこは決して譲りはしないだろうが、司馬懿一人ならば曹丕の苦にはならない。だからいっそ良い機会かとも思ったのだが、生憎と司馬懿は今朝早くから、宮廷の書庫に篭っていた。無論、曹丕の為なら公務も我が身の安全も、何を置いても急ぎ馳せ参じたであろうけれどもまあ、ならば無理を強いることも無いか、と云うことで。

(護衛としては、然程の役には立たぬのだし…)

 あくまでも文官気質な腹心の行状をあれこれ思い返して、曹丕はひとの悪い笑みを浮かべた。司馬懿の云わば人並み程度の剣技や馬術が、主の伎倆に遠く及ばないのは動かし難い事実なのだが、この場合の曹丕の悪態はある意味、照れ隠しめいたものだったかも知れない。永く頑なに閉ざしていた扉から、唯一人を指し招く様なこの心境の―――果たして当の曹丕に、自覚が在ったか、如何か。

(まあ…――いずれ、な。)

 とは云え今日のところは、巧い言い訳を用意しておかねば。
 事情はどうあれこうも不穏な事態に帰結した以上、今回はひたすら誤魔化してしまう他は無い。それでもいつかは共犯へ巻き込む羽目になるのだろう、司馬懿の執拗い追求を躱す秘策を考え巡らせながら、曹丕は駆ける愛馬の首筋を撫でて労った。


| 10:03 PM

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