願 瑞 雪

* 「雪待月」「誓雪天」の続きです。未読の方はまずはそちらからどうぞ *


「…あ…」
 歩み出た回廊、けぶる吐息の向こう側、外界のしろに瞳を凝す。
「……道理で、寒くなった」
 天より静かに舞い落ちる欠片はとめどなく、地を濡らしては染込んでいく。灰に燻んだ景色は直に、白一色に染め尽くされるだろう。
 ――そういえば確か、初雪ではなかったか。
 欄干越しに見上げる天、今年も不首尾に終わったかと、殆ど習性の様に考えてしまう自分に気付いて、少し笑った。


 ――冬一番の雪は、願いを叶えて呉れるんだよ。

 そう、教えてくれた兄はもう亡い。
 父はいつも遠く、母は弟のものだったから、撫でてくれる兄の手はとても嬉しくて。思慮深く穏やかな物腰、いつか捕まえられれば良いねと、優しく微笑む表情が好きだった。けれど。
「……御伽噺、だな」
 そんな奇蹟を、本気で夢見たことは一度も無い。
 何かを手に入れる為の尽力や研鑚、そんな代償は己で贖う外無いのだと、随分前から識っていた。願うだけで叶う夢など在り得ないし――如何努力しても得られないものとても、在る。
 それでも冬になればいつも、夢中で雪を追った。ただ、兄に微笑って、褒めて貰いたかったから。白い輝きは美しいと感じたけれど、所詮それはいずれ、溶けて消える水粒に過ぎない些少な存在で。捕まえた欠片に何を願うかなど、真剣に考えたことも無かった。
 ――願いなど、叶わない。
 思考の芯、酷く冷えた部分がいつでも、静かに呟く。期待するだけ、無駄なのだと。
「我ながら、可愛い気の無い…」
 例えば、血が醒めているとか。
 評され慣れた事ではある。昔から変わらない、それが自分だと解っている。自己を律し動じない冷静さは士大夫が備えるべきもの、そう在れかしと心に課しては来たのだけれど、この偏狭で無味乾燥な己の性分は何より天性のものにも思えて。詮方無くも僅か込上げる苦さを、自嘲で紛らわせた。

「――子桓様」

 確認しなくても誰だか解る、低い声音。どこか救われた気持ちで振り向けば、長身の影が急いだ足取りで近付いて来る。少し息すら切らしている様子は、余人の前では決して体裁を崩さないこの男にしては珍しい。
「お探し致しました」
「何だ、約束の刻限にはまだ――」
 訝しみながら目を遣れば、幅広の肩に砂色の髪に点々と、白い結晶。見かけないと思ったら、どうやら屋外に出ていた様だ。
「この寒いのに外出か?酔狂だな」
「…ですね」
 些か大仰に呆れて見せると、薄い唇の端が少し上がって苦笑を刻む。吐息が白い。
「確かに酔っている様な心地ではあります。……ようやく、報われましたので」
「え?」
 長い腕がすう、と伸ばされる。相手の意図が解らぬまま、握られた拳が開かれるのをただ見ていた。捧げる様に差し出された掌が、濡れて光る。――水滴?
 どうやら明らかに、怪訝な顔をしていたらしい。静かな声が、執成す様に続ける。
「正真正銘、今年初めての雪です。生憎、ここまで来る間に溶けてしまいましたが」
「――ゆ、き…?」
 瞬間、記憶の断片が掠めた。初雪。願い。冬の午後。あれはいつのことだったろう。多分ほんの短い時間、他愛も無いやりとり。……驚いた。話した此方は、完全に忘れていたというのに。
「………よく…覚えてたな……」
「貴方が仰った事を、忘れる筈がないでしょう?――御約束通り、貴方に」
「――――……」
 随分と遅くなって申し訳ありません――言って目礼する様を、答えもせずに呆と眺める。相手の糞真面目――と云うのだか、如何だか――な奇行に実際呆れてもいたし、手にするのを殆ど諦めていたモノが突然、目前に供された訳だから。――ましてや、自分以外の誰かによって、自分の元に。
 余程急いで来たのだろう、髪や肩に積もった雪は払われもせず、衣に濃い染みを作り始めている。見ているこちらが寒々しくなる程なのに、当人は一向に頓着しないで。促す眼差しに、そろり、指を伸ばした。
 酷く――冷たい掌。
 包む様に抱き寄せてくる、その体温が低いのはいつものこと、しかしこれではまるで氷だ。――一体どれだけ、外に居たのか。
 それでも触れると、宵闇色の瞳が穏やかに笑む。この男の微笑は実は優しく、心地良くて好きだけれど、足元がふわりと浮遊する様で、同時に酷く不安にもなる。頭の芯が痺れる感覚に抗いたくて、強く瞳を閉じて言葉を紡いだ。
「……迷信だ、ただの。信じたことなんてない……子供の頃も、いつだって」
 そう、信じない。
 その癖、冬の初めを、ずっと変わらず気にかけた。
 喜んでくれる兄はもう居ないのに。それが何故だか本当は知っている気もする、けれど認めない。気付いたりしない。
「子桓様」
「お前は本気にしているのか?願えば、どんな望みも叶うと?」
 信じは、しない。
 欲しいと焦れたものはいつも、己の手を擦り抜けた。
 裏切られるのは望むから、傷付き痛むのは願うから、だから。
「―――叶います」
 最後は殆ど叫びだしそうになるのを、遮った声はむしろ柔かく、一瞬聞き逃しかける。臆した視線を戻せば、こちらは多分一度も逸らされなかった、眼差しに囚われてもう動けない。

「叶えてみせましょう。貴方が願うなら――何であろうと」

「―――――っ…」

 一言、一言。
 力在る言葉に息を呑む。捧げられた誓約は事も無げに、しかし取繕うでも奇を衒うでも無くて。……全くこんな風に。酷く楽天的にも、いっそ無神経にも思える男の言葉は、全く別世界の響きの様で時折、理解出来ない。

 だって、信じてはこなかった。
 信じられずに、いた。如何しても。
 天の奇跡も、優しいひとも。
 縋ることなど。頼れば、心弱くなるだけと。
 殺しきれない、曖昧で浅薄な期待なら本当は、胸の奥底にずっと在る癖に。
 常識とか理屈とか矜持とか、そんなもので益体も無く必死に己を守って。
 だから、解らない。願う望みさえもう探せない。なのに。
 それ、なのに。



 この――冷たい手ならば。
 信じても良いのだと、どうして今では思えるのだろう?



「……阿呆……」
 永久に続けば良いと願ってしまう様な沈黙を、悪態で如何にか終わらせる。
 何だかもう、敵わない気がした。けれど――悔しいとも、思わない。
「…貰ってやる。折角の努力、無にするのも哀れだ」
「有難う御座います」
 そんな台詞さえ心から喜ぶ笑顔に、不意に泣き出しそうになって俯く視線の先、幽かな光を映して一滴の水粒が煌く。触れてみた指を濡らすそれは、凍えている訳でもないのに、何故かとても暖かい。
 求め続けた一片ひとひらは、勿論ただの雪だった。儚くも容易に、溶けてしまう。
 けれども、宿る想いならいつまでも此処に残るだろう。きっとずっと、消えること無く。

 嗚呼、そうか。
 永く焦れていたもの、多分これこそが、

「……奇跡と、云うのだな……」
 ――ならば、願おうか。望んでしまおうか。
 時間をかけても良い、きっと叶うのだろう、お前が此処に居ると云うのなら。
「子桓様…?」
 微かな独白を聞き咎め、気遣わしげに額が寄せられた。それでも双眸が穏やかなのは、こちらの心境を幾らか読み取った所為だろうか。流石に少し悔しい気もして、否と素気無く躱してやった。得心しかねて僅か、渋る風情が可笑しい。
「とにかくその格好なりを何とかしろ。……風邪などひいたら、笑うぞ」
 そんな相手を揶揄する様に。――それとも或いは、祈る様に。
 この温もりさいわいが伝われば良いと。まずはひとつ、欠片に込めた願いおもいごと、冷たい指を握りしめた。

雪ネタ三部作ラストは曹丕視点で。
曹丕には幸せになって貰いたいのです。本当に。
何が「幸せ」なのかは難しいところ、でもお互い離し難い相手と共に在るのは確かなこと。
ともかくもう二度と、一人できせきを待つ事はありません。