雪 待 月 * 十 一 月

「随分、冷えてきましたね」
 吐く息もすっかり白くなった、冬の日の午後。中庭を臨む回廊で一人佇む、他の誰と見間違える筈もない優美な背中へ、司馬懿は声をかけた。
 静かに柔らかく響く声に、驚いた様子はない。殊更確かめる必要を認めなかったらしく、振り返りも答えもしない相手の背後へと、長身の影はそのまま歩を進める。
「何を御覧に?」
「…雪」
 欄干を抱く格好で凭れて。見上げていた天を、細い指が差し示す。その華奢な背中を包むように身を乗り出せば、厚く立ち込める灰白い雲が司馬懿にも確認出来た。
「ああ…今にも降り出しそうですね」
「知っているか?その年降る雪の初めの一片ひとひらを捕まえると、願いが叶うそうだ」
 男の長い腕と欄干の間へ抱き込まれる体勢になるのに構わず、視線を前上方に固定したままで曹丕が続ける。
「雲行きが怪しくなる度、空を見上げたものだが……次に気付いた時にはもう、積もってしまっているのが常でな」
 かろうじて司馬懿にだけは解る程度、ほんの僅かな笑みが、曹丕の唇を彩る。空の白を映して淡さを増す瞳は、存外に真剣に見えて。本来暑さも寒さも苦手である筈の主君の幼子めいた奇行が、司馬懿には愛しく微笑ましい。
「…それで…見張っておられる?」
「――本当に小さな、子供の頃の話だぞ。言っておくが」
 自分を抱く男の、声には出さない笑みを別の意味に感じたのか。肩越しに振り返った曹丕の視線が、初めて司馬懿に向けられる。不機嫌を装った台詞はどこか取り繕う様で可愛らしく、司馬懿は今度こそ思わず声に出して微笑ってしまい――容赦のない肘を腹に頂戴した。
「これは失礼。――さあ、この様な場所に長居はお体に障ります。私が代りに捕らえて献上致しますから、もう中へ」
「…ふん」
 強かな一撃にさして堪えた様子もなく、背を抱いて促す腕に、憮然としつつも曹丕が従う。導いて捕ったその手がひどく冷たいことに気付いて、司馬懿は眉を顰めた。
「随分こうしていらした様だ。こんなに冷え切って」
「こ…子供の頃と言ったろ?今は別にそんな事…――大体、お前に言われる筋合いはないぞ」
 自分は夏でも冷たい手をしている癖に――苦し紛れの反論は、単に決まり悪さを誤魔化す為だけに発せられた、という訳でもなく。実際、凍えた指を握り締めてくる掌の熱を、この期に及んでも曹丕は少し暖かい、という程度にしか感じない。これは、曹丕の体温が元々高い所為もあるのだろうが。
「そう…ですか?」
「ああ。時々驚く、触れられると」
 言われて、細い手首から慌てて離した自らの掌を、司馬懿が怪訝そうに見つめる。どうやら全く無自覚であったらしい相手の様子が可笑しくて、曹丕は思わず失笑した。――見て解るものでもないだろうに。
「言われたこと無いのか?……ああ手だけじゃない、体温自体が」
 手元を凝視したまま、自分の犯した重大な失敗を反芻している様な表情の男に、曹丕がつと両手を伸ばす。
「低いんだ。ほら」
そのまま何気なく頬に触れて笑った、次の瞬間。

「――――っ…」
「………!」

 大きく見開かれた切れ長の瞳。白い掌に包まれた鋭角な面は対照的に、鮮やかな朱に染まって――触れ合う部分から燃えるように熱くなる。
 常とは違いすぎる反応を呆然と見つめて。呼吸も出来ずに固まった長身の男が、今にも発火するのではないかと一瞬本気で危ぶんだ後、我に返った曹丕は急いで手を引っ込めた。視線を逸らせて、呟いた叱嗟が僅かに掠れる。
「……阿…呆。何を、今更」
「――すみません」
 不意打ちには弱い様で――らしくもない、愚にもつかない台詞。同じく視線を逸らせ、情けなく弁解した司馬懿の頬は、大きな掌で半ば覆い隠されていたものの未だ十分に朱い。何だか正視出来ない居心地の悪さに、いたたまれなくなった曹丕は無言のまま、乱暴に踵を返した。――莫迦げている。お互い何度も触れて触れられて、知り馴染んだ感触である筈、なのに。
 それでも曹丕は、先刻までの酷い寒さが今は気にならない自分に気付いていた。自分の頬も火照っているのではないだろうか。曹丕は立ち尽くす司馬懿を置き去りに、そのまま歩き出す。長い指に捕まる前に、そこから離れたかった。――触れられれば、負けずに上昇した体温ねつが、相手に知れてしまうかもしれない。
「…あ」
 視線を上げれば、目前に舞う白い雪。いつの間にか、気付かぬ内に降り出してしまったらしい。
「――お前の、所為だぞ」
 舌打ち混じりに、わざとそっけなく言い捨てながら、曹丕は中庭へ下りる階段へと歩を進める。すみませんと、拱手して再度謝罪するが見向きもされず、途方に暮れた司馬懿の唇から力ない溜息が漏れた。止めを刺すように、視界を横切る雪の量は加速度的に増していく。

 それでも。
 天から降る欠片よりも、遅れて追ってくる足音が気になって。曹丕の歩調は自然と、緩やかなものになるのだった。

冬と体温と懿丕。 「誓雪天」 「願瑞雪」 に続く雪三部作の一話目です。
何だか照れる位のほのぼのが自分では結構好きな話で、同人で漫画化したりもしてみた(笑)
初雪云々の話は、昔誰かから聞いたような気がするおまじない。本当だかどうだか。