月と異邦人 * 梅仙さま
『紗羅ノ国』から運ばれた、その瞬間。
それはまさに絶望だった。
「マジかよ……」
「Слмюз、Ёиф? Кбгд――」
言葉が通じない。と言うことはモコナと、恐らくはサクラとも小狼とも遠く離れてしまったのだろう。同じ世界の離れた場所に落ちたのか、或いは全く別の世界に分かれたのかは見当もつかないが、何にせよ厄介な状況であることは確かだ。
しかし今は何よりも、ここがどのような世界なのか確かめねばなるまい。
黒鋼はそのとき、自分達に向けられる視線に気付いた。そして次の瞬間には、兵卒らしき男数人に取り囲まれていた。
「曲者。名を名乗れ」
その鋭い誰何の声は、黒鋼が長年親しんだ言語とよく似ていた。どうやらこの国と『日本国』とはかなり近い言語体系を持つらしい。これならば、モコナがいなくてもどうにかなるだろう。相手の態度は決して和やかではないというのに、黒鋼は安堵せずにいられなかった。
しかしファイにはやはり理解できないらしく、黒鋼が見遣ると、彼は首を横に振った。そして手を己の口に当て、目配せしながらまた首を振る。黒鋼はその意図を読み取ると、慎重に言葉を選んで話した。
「俺は黒鋼、こいつはファイだ。俺達は余所者だ。道に迷って困っている。この国のことは何も知らん。こいつは……口がきけねえ」
耳慣れない異国語を話す人間は、それだけで注目を集める存在だ。口がきけないことにしておけば、少なくとも面倒が増えはすまい。ファイの咄嗟の判断は、この時点では最善の選択だった。
黒鋼は再びファイを見遣り、不意に気付いた。ファイの瞳が――黒い。あの蒼い瞳が、無患子のような黒に変わっている。光線の加減などではない。彼の瞳は正真正銘、黒く変わっていた。
黒鋼に混乱する暇も与えず、兵卒達はやかましく騒ぎ立てる。
「何処から来た。旅の目的は何だ」
「何と奇妙な髪だ。尋常の者ではあるまいぞ」
兵卒達の髪は、いま見る限り一人の例外もなく黒かった。『日本国』と同じく、この国では黒髪が普通らしい。ファイの亜麻色の髪は、彼らの目にはさぞ見慣れない、奇怪なものに映るだろう。
そのとき、今度は背後から低い声が届いた。
「よせ。風体から見ても敵の手の者ではあるまい」
その威厳に満ちた物言いは、彼が只ならぬ身分の者であることを示していた。
「王!」
兵卒達が平伏する。二人が振り返るとそこには、黒髪を風に靡かせて立つ偉丈夫がいた。装いも、その身に纏う空気も、明らかに一兵卒とは格が違う。
「失礼した、お二方」
王と呼ばれた偉丈夫は、ゆっくりと二人に歩み寄った。
「ここは『夜魔ノ国』、夜叉族の国だ。私は一族の王。夜叉王とお呼びあれ」
間近に見ると、夜叉王は意外なほど若いようだった。その髪と同じ黒い瞳は、威厳に満ちているのに少しも威圧的ではない。黒鋼もその持ち主を幾人
しかし黒鋼には、それよりも別のことが気に懸かった。
ファイが、彼を見ている。滅多に見せない真顔は、彼が何か重大な発見をしたことを示している。しかし今、それが何なのかを問いただす術はなかった。
夜叉王と名乗った男は、二人にこの上もなく有難い提案までも申し出た。
「わが城へ来られよ。お困りの旅人をもてなすも功徳となろう」
食料も寝床も持たぬ身に、否やのあろう筈もない。かくして二人は夜叉王の客分として、彼の居城たる夜叉城へ身を寄せることとなった。
夜叉城で二人にあてがわれたのは、小さいながらも雅致に富んだ座敷だった。
王が自分達を客として遇すると言ったのは、どうやら本心であったらしい。振る舞われた料理は美味だったし、広い湯殿で湯浴みもできた。二人が一日の疲れを洗い流し、床を延べられた部屋に戻ったとき、時刻は既に真夜中に近かった。
「これから何があるか、まだ見当もつかねえ。なるべく休んどけよ」
言葉が通じないと分かっていても、何か話し掛けずにはいられない。
「Кзцояжэ、Беы」
ファイが不意に顔を上げ、黒鋼を指さした。
「何だよ?」
その指は真っ直ぐに、黒鋼の瞳を指している。
「目? 俺の目がどうかしたのか」
そこまで言って気が付いた。先刻見たとき、ファイの目は黒くなっていた。自分の目も、或いは。
「鏡、どっかにねえかな」
見回すと、座敷の隅に小さな鏡台が置かれていた。鏡の覆いを外して覗き込むと、赤かった筈の己の目もやはり黒くなっている。何らかの魔法でもかかっているのか、『夜魔ノ国』に踏み入った人間は、もとの瞳がどのような色であろうとも黒く変わるらしかった。
黒鋼の髪に黒い瞳は些かの違和感もない。不自由がない程度に言葉も解れば、この国の気候も生活習慣も彼の故郷と似ている。数日のうちに、黒鋼はごく自然に夜魔ノ国の人間になることができた。
しかしファイはそうはいかなかった。亜麻色の髪に黒い瞳というのは、ひどくちぐはぐな取り合わせだ。容姿も奇異なら言葉も理解できず、習慣にも馴染まない。この夜魔ノ国で、ファイはたった一人の異邦人だった。
*
夜叉城では毎朝、練兵が行われる。黒鋼はいつしか、夜叉族の将兵に混じって訓練に参加するようになっていた。夜叉王の客分となっても怠けるわけにはいかない。戦うことこそが存在理由である黒鋼にとって、鍛錬のない生活など考えられなかった。
その腕が夜叉王に見出されるのに時間はかからなかった。黒鋼が練兵に加わるようになってから数日あまり経ったある日、黒鋼は王に声を掛けられた。
「貴殿、戦に出る気はないか」
黒鋼はそこで初めて、月の城での戦について聞かされた。
夜叉族と阿修羅族との、幾世代にもわたる争い。両軍ともに、月の出とともに月の城に運ばれ、月が天心に昇ると帰される。様々な戦いを経験した黒鋼もついぞ聞いたことのない、あまりと言えばあまりにも奇妙な戦であった。
毎夜、月が昇る頃になると、王をはじめ夜叉族の将兵の多くが何処かへ消える。そして月が中天に差し懸かるとまた、何処からともなく帰ってくる。黒鋼はかねてよりそれを不審に思ってはいた。しかし自身に関わりのないことには首を突っ込まない性分なので、誰かに問うこともなかったのだ。
存分に戦える場所に行けるのは願ってもないことだ。モコナ達と再会するためにも、なるべく色々な場所に行ったほうがいいだろう。黒鋼は二つ返事で引き受けた。
「夕刻、月の出と同時に出陣する。それまでに仕度を済ませておかれよ」
今宵は居待月
久々の実戦に腕が鳴る。黒鋼は午後を武器と防具の手入れに充て、まだ日の出ているうちに自分の膳だけ運ばせて夕餉を掻き込んだ。ひとりで食事を終え、防具を纏いはじめたところにファイが帰ってきた。
「Допсыгэюя?」
どうしたの、と訊かれたことは解った。
「今夜から戦に出ることになった。『修羅ノ国』の阿修羅族と戦うため、月の城へ行く。行くのは俺一人で充分だ。お前はここにいろ」
身振り手振りを交えながら、ゆっくりと説明する。言葉は通じずとも工夫次第で意思の疎通は可能なのだと、ここに来てから学んだ。
「Эйа? Щжцйч……アシュラ、Юкбяюс」
「アシュラ」の音を聞き取った、その瞬間。ファイの顔色が変わった。柔らかな表情が、刹那、きびしく張りつめた。しかしそれは本当に一瞬のことで、見る間にまた、元通りに凪いだ――ように見えた。眼差しだけが、張りつめたままだった。
「Офёэюдеж」
「オレも行く」と言ったことは、その目を見れば知れた。「何故」と問うでもない、「行くな」と取り縋るでもない、何かを決意した者の目だった。
ファイが戦えることは知っている。しかしこれまでの戦闘と、大人数がいちどきに干戈を交える戦とでは勝手が違う。のみならず、この戦が「阿修羅」と関わりを持つと知った彼は、明らかに何処か冷静さを欠いている。いま彼が戦場に出ることは、常識で考えれば命取りだ。
それでも、彼がなまじな説得に耳を貸す相手でないことを、黒鋼はよく知っている。物腰はあんなに柔らかなくせに、結局どこまでも自分の筋を通す。そういう人間なのだ、彼は。
「……待ってろ。何か借りてくる」
戦場に出る以上、丸腰ではいられまい。黒鋼は踵を返して部屋を出ると、ややあって両手に武具を抱えて戻ってきた。
「これを使わせてくれるそうだ。武器は好きなのを選べ。こっちは防具だ」
刀に剣、弓、棒と一通りの武器は揃っている。ファイはやや考えて、その中から弓を選び取った。その傍らで、黒鋼が箱から防具を取り出す。
「こっちの人間とお前じゃ体格が違うから、ぴったりとはいかねえだろうが」
箱から取り出された肩当てや胴衣は、重装備でこそないものの、充分に実用に耐えうるしっかりした品だった。仰々しい鎧具足は、慣れない人間には邪魔なだけだ。
ファイはそれらを一つずつ手に取ると、小さく呟いた。
「ЖъЗуфЛж」
その意味するところは解らないが、「着けられるかな」といったニュアンスの言葉であることは察せられた。ファイがこの世界で武装するのは初めてだ。着物の着付けにさえ散々手こずった彼が、甲冑の着けかたなど知ろうはずもない。
「貸せ。着せてやる」
黒鋼はファイの手を取って立たせ、その前に片膝をついた。
それまで着ていた帷子
以前、主君・知世姫から教わった呪
――無事でいてほしい方の下紐をね、結んで差し上げるのです。結び目が解けないうちは、その方の身を守ってくれるのですわ。
相手の無事を願う、ささやかな呪
次に袴を穿かせ、また固く結ぶ。胴衣を胸に当て、またきつく縛る。肩当てを肩に合わせ、また丁寧に結わえる。
たかが紐の一本を、これほど細心に結んだことがあっただろうか。黒鋼は、自分がまるで生まれて初めて紐を結んだかのような錯覚に陥った。
「出来たぞ」
夜魔ノ国の甲冑は、意外にもファイによく似合った。武人らしい厳めしさはないが、戦い慣れた者だけが持つ、引き締まった凛々しさに溢れている。見惚れるばかりに姿けざやかな、一人の若武者がそこにいた。
ファイの亜麻色の髪は、隊列の中でも際立って目を惹いた。闇に浮かぶ月の城に、いまひとつ小さな月が昇ったかと思われるほどだった。
戦陣でのファイの働きは目覚ましかった。月の光を柔らかく吸って、亜麻色の髪が鈍く輝く。と見る間に、敵兵が瓶を転がすように倒れていく。鮮やかと言うほかない戦いぶりであった。
ファイはこの初陣で、これまで夜叉族の将軍の誰も立て得なかった勲功を、事も無げに我がものとした。無論のこと黒鋼もそれに劣らぬ武勲を立てはしたのだが、ファイを啞の異人と侮っていた夜叉族の人々には、ファイの功績のほうがより強烈な驚きをもたらした。
「全く天晴。かほどの働きを見せてくれようとは思いも寄らなんだ」
夜叉城に帰還した二人は、王から直々に言葉を賜った。最早二人が王の客ではないことを、誰もが悟った。黒鋼とファイはこの夜を境に、夜叉王配下の将軍に名を列ねたのだ。
月が山の端に傾く頃、二人はようやく部屋に戻った。
久々に容赦なしに戦って、身体はもうくたくただ。黒鋼は迷わず寝床に潜り込んだが、隣に敷かれた蒲団には、しばらく待っても人が寝る気配がしなかった。
「おい、もう寝るぞ。お前も寝なきゃもたねぇだろ」
黒鋼が上体を起こすと、ファイが窓際に座って月を見ているのが目に入った。
「Ждфза、Немяйаг」
何だか眠れなくて、とでも言ったのだろう。その表情は、険しさもざらつきも綺麗に洗い流された、いつもの柔らかな笑顔に戻っていた。
「……俺は先に寝るからな」
黒鋼は再び横になると、殊更に乱暴な手付きで蒲団を首まで引っ張り上げた。視線だけでファイのほうを見遣ると、細い横顔の向こうに、仄かに白みはじめた夜空が見えた。
もうすぐ夜が明ける。
三国志友達の梅仙さんからいただきましたv
思えば以前、かなり強引に強請り倒したのだったよね…
ごごごめんなさいマジ嬉しいですああ無理言って良かっt( 万 死 )
『修羅の国』話、心底ダイスキな設定なので悶えまくりです。
だって二人っきり+言葉通じない+戦時中の3コンボですよ!ヤバイよ!!(じたばた)
梅仙さんの黒ファイ、黒様がとても面倒見がよくって惚れます~v
紐のおまじないがまた…!や、やさしい…!!
そしてアシュラ関連だと途端に揺らぐファイさんとか、
ちゃんと見抜いてる黒様とか。うわーもうツボすぎます~(>_<)
綺麗で静かななかにも、どこか焦れるみたいな雰囲気が漂う二人がすきです。
ほんとに有難うございましたv
* June 18, 2006 *