願 い

 薄暗い室内。
 音も立てずに、侵入してきた、男。
 その影はゆっくりと奥の――寝台へと歩を進める。  そこに横たわる部屋の主は、微かな寝息を立てていた。その秀麗な面を僅かに歪ませて。うっすらとにじむ汗の所為か、暗闇にはっきりと浮かび上がる白い額に張り付いた細い前髪を、男の長い指がそっと掻き上げた。
 その冷たい感触に、伏せられていた長い睫毛が微かに揺れた。そうして、いささか熱を帯びた瞳の焦点が、傍らに立つ男に定められる。
「――お前か…仲達」


「――体調が思わしくないと、伺いまして」
「ただの風邪だ」
 額に手を触れたまま語りかけてくる司馬懿に、曹丕がそっけなく答える。
「――お前を呼んだ覚えはないが?」
「呼ばれた覚えもありません」
 余人であれば間違いなく恐縮してしまうであろう、絶対的な冷ややかさを含んだ声だが、司馬懿には一向にこたえる様子がない。その指は曹丕の頬をゆっくりと滑り、細い首筋にあてられる。
「まだ微熱がおありなようですな。御気分は?」
「最悪だ。……用などない。失せろ」
 にべもない台詞。
 司馬懿の指を払い、冷ややかな瞳で一瞥する。
 その視線を黙って受け止めると、司馬懿は一礼して踵を返した。そうして、扉の方へと歩を進めて――部屋の隅にあった椅子に腰掛け、何時の間にか持ち込んでいたらしい数本の竹簡を、おもむろに広げる。
「―――何してる、そんな所で」
 司馬懿の行動に、曹丕の端正な眉がひそめられる。
「本日の政務に少々気になる点が」
「…そうじゃない。何故そこでやるのかと言っている」
 棘のある声。確実にいらだちを増していく様子の主君の問いに、司馬懿は涼しい顔で応じる。
「私の事は構わずに。ゆっくりお休みになって下さい」
「……他人がいると眠れない」
「私は気にしませんが」
「俺が気にするんだ。出てけ!」
 曹丕が声を荒げた。普段怜悧な――感情を表に出さない立ち居振る舞いを常とする彼には、珍しいことと言えるだろう。尤も、権力者・曹操の長子の機嫌を害するような行いをする者など滅多にいなかったが。
 氷細工の傑作品に表情をつけることに成功した希少な不届き者は、やれやれといった態で立ち上がると、主君に近付いた。自然、牀に身を起こしている曹丕が見上げる形になる。
「眠れないのであれば、私が眠らせて差し上げましょうか。……先日の夜は、すこやかにお休みだったでしょう?私の腕で」
 慇懃な言葉遣い。けれど、さらりと口に出したその内容は――確かに事実を含んでいたものの――それ以上に無礼であった。第一それは、曹丕の意志というより、目の前の男の所為であった訳で。常通りの、抑揚のない口調で囁かれる戯れ言に、曹丕の瞳が極冷の険を孕んだ。
「――その舌…引き抜いてやろうか」
 形の良い唇から発せられる声は冷静だが、それだけにかえって凄みがある。
 その瞳に挑むように微かに笑って、司馬懿は身を屈めた。視線が絡まる。手が伸ばされる。そうして。
「貴方が、噛み切って下さいますか…?」
 次の瞬間、司馬懿は曹丕の唇を奪った。強引な、それでいて腹が立つ程落ち着いた所作。無感情なほど冷静な物腰からは想像もできない――熱い。
「…ん…っ…」
 相手を押しのけようと努力しながら、曹丕は思わず目が眩むのを自覚していた。風邪の所為だ、そう思う。けれど司馬懿のその、指の冷たさとは対照的な熱い口付けに、声が漏れるのを押さえることはできない。
「―――…!?」
 舌ではない物の感触を口中に感じて、曹丕の意識が収束した。吐き出そうとするところを司馬懿の唇で阻まれる。小さな異物が、喉元を通過するのがわかった。それを確認した司馬懿が、静かに身を離す。曹丕によって傷付けられた舌が出血し、唇の端に紅い筋が流れた。それを、長い指先で無造作に拭って、事も無げに言う。
「――本当に噛まれるとは思いませんでした」
「五月蝿い!――何を入れた、お前!」
「ただの風邪薬ですよ。……こうでもしないと、飲んでいただけないようですし」
 あきらかに手付かずなままで卓上に放置されている種々の名薬に目を遣りながら、司馬懿がしれっと答える。曹丕の刺すようなまなざしを、平然と受け止めて。
 臣下のその不遜な態度を前に、しばし沈黙していた曹丕が、静かに口を開いた。相手の、相変わらず無表情な顔を睨み付けたまま、言葉を紡ぐ。
「――水」
 この上なく不機嫌そうな口調で吐き出された欲求に一礼すると、不敵な男は卓上の水差しを手に取った。水の入った杯を、無駄のない動作で差し出す。
 それを受け取った曹丕の、端正な唇の端が上がるのを、司馬懿は見た。次の瞬間、曹丕の白い手首がしなやかに翻る。冷たい液体が宙を舞い、司馬懿を濡らす。
「!」
「――これ以上濡れたくなかったらさっさと失せろ。風邪をひいても知らんぞ」
 空になった杯を無造作に投げ捨て、美貌の主は皮肉に冷笑してみせる。挑むようなその笑みは、いっそ冷艶であった。
 手酷い報復を加えられた男は、落ち着いた動作で頬を伝う流れを拭う。そのまま退出するだろう、という曹丕の予想は、次の瞬間見事に裏切られた。無言のまま濡れた上衣を脱ぎ捨てた司馬懿に、牀へと押し倒される。
「…何…っ…!」
 当然曹丕は抗ったが、司馬懿はその抵抗を巧みに退け、組み伏せる。
「実力行使です。早く眠っておしまいなさい」
「この状態で眠れるか!」
 いたって冷静な司馬懿の声には、いささかの揺らぎも無い。司馬懿が本気である以上、曹丕が力で敵うはずもなかった。ましてや今は病床にあるのだ。
 それでも抵抗を止めようとしないのは、彼の、他に屈するのを潔しとしない気性ゆえだろうか。その気高い気丈さに目を細めながらも、司馬懿は手を弛めようとはしない。そうして、曹丕の耳元で、囁く。
「病人に手は出しませんよ。――尤も、そう暴れられては理性も揺らぎかねませんが」
「……っ…!」
 暴れたためか、すっかり乱れてしまった着物の合わせ目から、曹丕の白い肌が露わになっていた。それを一瞥してから再び合わされた司馬懿の視線に、冗談などではない、静かな欲火を認めて、曹丕は小さく息を呑んだ。
 これ以上抵抗すれば、碌なことになりそうもないという理性の囁きで、腹立たしさにたぎる感情を無理矢理押さえつける。しばしの葛藤。そうして。
 曹丕が身体の力を抜くのを感じて、司馬懿は手を弛めた。恭しく目礼すると、慣れた手付きで主人の襟元を直していく。牀から出ていく様子は全くなく、本当にこのまま寝かしつけるつもりでいるらしい。先程上衣を脱ぎ捨てたのは、相手を濡らさぬようにとの配慮か。
 ――可笑しな所で、律義な奴。
 曹丕は深い溜息をつく。司馬懿が寝衣を整え終え、上掛けを引き上げる頃には、激情はほぼ沈静化していた。…勿論、不本意さは拭いきれるものではなかったが。
 その気持ちを少しでも紛らそうとしてか、曹丕が口を開く。諦めを含んだ声。別段、その問い掛けに、答えを望んでいた訳ではなかったけれど。
「――何を考えている、お前は。抱きに来た訳ではないのなら。何が、望みだ」
「……おわかりになりませんか?」
「俺が知るか」
 そっけない台詞。どこか拗ねているようにも聞こえて、司馬懿は微かに笑う。
「……病に伏せるお姿も、さぞかし美しかろうと思いましたが――想像以上でしたな」
「見物か。――悪趣味だな」
「――知りたいのですよ、私は」
「何を――」
 横目で睨む曹丕をまっすぐに見据えて。司馬懿のその深く静かな瞳に、何か強い意志を感じ、問い返そうとした――その時。
「……っ……?」
 くらりと、曹丕は目眩を感じた。身体がひどく重い。確かに、完全でない身体で急に動いたことで、消耗はしただろう。それでも、これはただの疲労ではないと、何故か霞がかったようにはっきりしない頭で理解する。――おかしい。
「……おい…本当に…風邪薬、なんだろう…な……っ」
 白濁してくる意識の中、言葉を紡ぐことすら困難で。途切れがちに問いつめる曹丕に、司馬懿が何食わぬ顔で答える。
「風邪薬ですよ。――ただ、強力な睡眠誘導作用もあると、聞き及んでおりますが」
「……!…貴、様…っ……」
 ――最初から知っていて、と。相手の襟元を掴み、睨み付けようとする曹丕だが。
 腕からは力が抜け、その瞳を開いていることすら出来ない。それでも懸命に伸ばされる力無い手を、司馬懿がそっと捕らえる。
「……覚え…て…ろ……」
 抗おうとしても、どうにもならない。思考が拡散していく。
「――さあ、ゆっくりとお休み下さい。朝までここにおりますから」
 手の甲を唇に当て囁く司馬懿の声は、静かで――柔らかく。
 そして。
「……感染って……死…ね……っ……」
 物騒きわまりない、心情のこもった台詞を残して、曹丕は意識を手放さざるを得なかった。


「――薬も飲まず、人を寄せ付けようとすらしない。全く仕方のない病人ですね」
 崩れるように眠りに落ちた主君の、細い身体を横たわらせながら、司馬懿が苦笑混じりに語り掛ける。
 ――それ程他人に――御父君に弱みを見せたくありませんか?
 口には出しては問わないけれど。
 ――もし、問えば。貴方は怒るだろう。――それとも。
 薬の所為か、白く秀麗な寝顔には、幾分の安らかさが認められる。安堵の表情を見せつつ、司馬懿はその掌で、曹丕の滑らかな頬をそっと包み込んだ。
「――知りたいのです、私は。貴方の弱さも、苦悩も。貴方が秘める、暗部も全て」
 ――貴方の負うもの、全てを共有したい。そう望むのは、大それたことだろうか。
「分不相応と、お怒りになりますか…?」
 答えはない。それでも。
 共に在ること。この上なく、強い願い。――例え、許されなくても。
 司馬懿は、惹き寄せられるように口付けをおとした。唇に、軽く触れるだけの。僅かに身じろぐ相手に、表情を和らげる。
「――他人に感染すと、治るそうですからな」
 その表情は、驚く程に柔らかく。
 至上の存在を、愛おしげに抱きしめる。優しく――けれども、強く。


「早く良くなって下さいね、子桓さま」


 安らかな眠りを妨げないように。
 どうか朝まで、このままで。

風邪ひき曹丕にガンガンつけこむ司馬懿さん歪みねえ。
そして時期的に初期設定な所為でヘタレ分がありません(笑)
子桓様が早く懐いてくれるといいね!司馬懿は比例的にヘタレゆく宿命だけど!!←
※ 風邪話司馬懿編は こちら