稀 吉 日
「――風邪?」
「は…本日は伺候致しかねるとの由、使いの者が」
家僕の報告に、曹丕は僅か小首を傾げる。
久々に遠乗りなど如何かと、約束を交わした筈の朝。どうやら寝込んでいるのだと云う、司馬懿が約定を――それが此方の誘いなら尚更――違えるのは全くの珍事で、病状は余程悪化しているものと推察された。鬼の霍乱と言う奴かと内心呟きつつ、使者が携えて来たという文を手に取る。
癖のある筆跡は既に見慣れたもの、流石にほんの少しの不如意は認められるものの、その文体はこんな時でさえ呆れる程に乱れが無い。理路整然、完結明瞭に過ぎる司馬懿の文章は、流麗典雅な名文を誇る曹丕にしてみれば些か面白味は無いが、まずは理知と誠実さを感じるのが常ではあった。
「わかった。ゆっくり休むようにと、伝言を――」
突然の反古と己の不明に対する謝意、何より言い尽くせぬ愛惜が綴られた白布を存外無造作に畳みながら。言いさしてしばし閉ざした形の良い唇、ふと添えた細い指を離すと、曹丕は前方、首を垂れた家僕に命じる。
「……否、此方も改めて使いを出そう。託けたい物があるので用意を」
御意――一層深く拝礼した家僕にすれば当然の、それでも残念な事だったかも知れない。
彼は見る事が出来なかった。主人が僅か浮かべる、珍しくも悪童めいた微笑を。
* * *
「―――っくしゅッ!!」
閉め切った寝室の窓から、遮り兼ねて差込む一筋の光。外はさぞかし眩しく温かく、絶好の遠出日和なのだろう。今の心境ではむしろ恨めしい程に。
一人で篭っているとは云え、些か思い切りが良過ぎた様な気もする己の盛大な嚔に、司馬懿は自嘲しかけて失敗した。鉛の如く重い頭は、少し動かしただけで激しく痛むのである。どうやら司馬懿は今、人生史上最悪の風邪を経験しているらしかった。
(――いっそ昏睡でもしてしまえば良いのだ、忌々しい)
どれだけ着込んでも寒いのに、妙に乾いてひりつく喉を枕元の水盃で湿して、司馬懿は己の間の悪さを有らん限りの悪言で呪った。無論、それで病状がいくらか回復する訳でも無い。
数日前から、体調が芳しくないと云う自覚はあった。それでも休まず出仕し続けた事が悪化の原因なのは明らかだが、それもこれも代りに1日、今日の休みを確保する為だった。曹丕の相手役の任を解かれてから、司馬懿は曹操直属の部下として働いていたが、その多忙さたるや尋常では無いのである。司馬懿の卓越した能力を持ってしても、気を抜けば飽和状態になりかねない程の責務はまあ、遣り甲斐があると言えない事も無い。しかし曹丕とゆっくり会う事も侭ならぬ悲痛極まる現状の前には、上司であり恋人の父でもある曹操の何がしかの悪意を、思わず勘繰らずにはいられない司馬懿であった。
ともかく。そうして如何にか捻出した休日は、風邪で寝込む為に用意した訳では勿論無いのであって。
(よりにもよって何故、今日なのだ)
疼く頭を枕に沈めて、司馬懿は溜息を吐く。今日は本当なら、曹丕と城外へ遠駆けに行く筈だった。無論二人きり、しかも――珍しくも――彼方からの誘いで。馬術に秀でた曹丕からともすれば遅れがちになる司馬懿に気付いて、さり気なく馬脚を緩めてくれるあの瞬間。熟達した技を持たない身にはそれでもかなり必死な行軍となるが、恋人と水入らずで過ごせる時間はそれ以上に至高の幸福だ。何にも代え難い時間。…だと云うのにこの体たらく。
(あまり、お怒りでなければ良いのだが…)
寸分違わず鮮やかに思い描ける、玲瓏な面影に思わず祈る心地。久方ぶりの逢瀬、日頃はつれない彼の人にとってもきっと、望ましい機会だった筈だ(と思いたい)。道理も理性も弁えた恋人が極稀に見せる、童子の様に素直な癇性はむしろ嬉しくただ愛しいが、一度損ねてしまった機嫌が直るまでにはかなりの時間を要する事は経験上、誰より良く知っている。…否、或いは己の不在など案外あっさりさっくり了承を――
……―――それはそれで、かなり寂しい。
主君の不興を心配する反面、勝手な想像で一人悲しくなったりする辺り、流石の司馬懿も病床にて些か気弱になっている証拠かも知れなかった――本人に自覚は無いにせよ。
「…矢張り直接お会いして、言上するべきだったか…?しかし」
今更如何にも仕様が無い事を、後悔するのは幾度目か。それでも断腸の決断は頗る妥当なものであったと、司馬懿とて判っている。唯一無二の想い人を目前にしてしまえば最後、如何しても去り難くなるのは当然で、多少の――否、相当の無理をしてでも傍らに在りたいと望んでしまうだろう。それが祟って昏倒しようとも悔いは無い、しかし万が一、恋人に病を感染させでもしたら。自分が寝込んで苦しむ何十倍何百倍、比にならない程に居た堪れぬ、有得べからざる事態ではないか。判っている。判っているのだ。
……それでも。凛と響く聲を、聴きたい。逢いたい、触れてしまいたいと、不如意な身の内で勝手な欲はただ、募るばかりで。つくづく重症だと、司馬懿は心底途方に暮れる。
いっそ、より激しい痛みに翻弄されたなら。不敬で不毛な葛藤も霧散するかと、眩む額に意識を集める司馬懿の悲愴な努力は、戸口からの声に遮られた。
「―――旦那様。お休みのところ失礼致します、公子様からの御使者がお見えで」
「……!子桓様の…!?」
司馬懿にとって「公子」と云えば即ち曹丕その人だけだ。その点、老練な家僕は良く弁えている。泥の如き様相から一転、思わず勢い良く跳ね起き頭痛にうめく主人の窮状は鄭重に無視し、慇懃に続けた。
「御病状見舞いとの仰せですが……如何致しましょう、返礼など用意してお帰り頂きますか」
「…否、少しお待ち頂け。すぐ支度を整える」
主人としての威儀を如何にか即座に回復させて――それでも殆どいそいそといった態で――司馬懿は袍を羽織りかけた。畏れ多くも公子の使者に会うのだ、居住まいを正す必要がある。現金なもので、割れる頭もふらつく足元も今だけは左程苦にならない。
使者はおそらく何か、曹丕からの文か、伝言を携えている筈である。此方を気にかけてくれた――それだけで充分に嬉しい事実だが、恋人からの確かな情の縁を、至高の幸せを一刻も早く噛み締めたくて。覚束ぬ手付きで支度する司馬懿をしかし、老僕は何故か手助けしなかった。
「――如何した、何か問題が?」
「はあ、それが………とにかく此方をお渡しする様に、と」
訝しむ主へ、代りに畳んだ白絹を献上する。薄く小さなそれにはどうやら、何か書付けてある様だ。
「……まずは読め、という事か?」
「おそらく…」
戸惑う老僕から受け取った、文とも呼べぬ体裁の布片を、司馬懿はとにかく開いてみた。端麗優美な、愛しき文字に息を呑む。他と違える筈も無い、主君直筆の文。けれど。
『見舞いの品を託けるから、直接受け取れ。更衣は不要、寝室へ通す事』
「――これだけ…?」
たった一行。宛名も署名も欠き、ただ簡潔に要件のみを綴った、彼の人らしからぬ味気の無い文面に、司馬懿は眉を顰めた。
内容も奇妙なものである。司馬懿にとって曹丕は唯の主君以上に尊び敬うべき存在であって、その使者に司馬懿本人が対面して遇するのは当然としても、更衣もせずに寝付いたままの姿で応じるなど礼儀上許されない。それは司馬懿の性格からしても明白な事で、曹丕とてそれは良く解っている筈なのだ。あまつさえ寝室で面会など、余程親しい間柄でなければ――
「―――――」
ざわり。ふいに到達してしまった思考の先、背筋に走るこの感覚は決して、悪寒ではあるまい。……真逆。真逆だ、そんな訳が。
「………使者の…使者殿の風体は」
「は?あ…はあ、年若く痩身の、その…」
胸騒ぎに知らず上擦る声で、それでも如何にか言葉を紡ぐ。問われて応えた、忠実実直な老僕の頬が珍しくも、年甲斐無く緩んで。
「――頗る、見目の良い若者で」
「……!」
「だ、旦那様!?」
「控えの間だな?」
殆ど寝衣のまま部屋を飛び出す主に、驚く老僕を気にする余裕など無い。予感は既に確信に変わっている、それでも病故の馬鹿な勘違いであってくれれば良いが――――否、良いのだろうか。
荒い呼吸が耳につく。些細な道程を、司馬懿は酷く遠く感じた。混乱するまま一直線に駆けた先、些か不躾に開け放った扉の向こう、一人佇む端正な背中。華奢な人影がゆるりと向き直り、膝をついて恭しく拱手する。
「――これは司馬様…直々のお越し、勿体無う存じます。存外、健勝な御様子何より」
「――――っ…」
詠う様な舞う様な。完璧典雅な口上、挙措振舞い。
この上無く優美に笑む青年を前に、司馬懿は絶句し、呆然と立ち尽くした。
* * *
「――もう良い。用があれば呼ぶから、誰も近付かぬ様に」
「はい」
主の言葉に一礼、茶器を抱えた侍女の視線がちらりと、見知らぬ使者の端麗な白面へ向けられる。控えめではあるが些か不躾な好奇心を別段咎めずむしろ、当の客人はほんの僅か唇の端を上げて応えた。
牀に上体を起こした司馬懿の隣、首尾良く用意させた胡床へ掛ける美貌の青年は、如何やら機嫌が良いらしい。恩恵に頬を上気させた侍女が夢見心地で退出するのを見送ると、此方はどこか憔悴した風情の司馬懿に向けて、華の様な微笑を気前良く投げ与えてみせる。
「――顔色が悪いですよ、司馬様。御病気なのですから、無理はいけない」
「…………そう思し召しなら、そろそろ御勘弁下さい子桓様…………」
心臓に悪いと、顔を覆って天を仰いで。不甲斐無くも弱々しい懇願はしかし、喉で短く笑い捨てられる。先刻までの慇懃な口調と態度を、曹丕は鮮やかに一変させた。
「仮にも『主の公子』が突然訪問する訳にもいくまい?さりとて前触れを出せばお前の事だ、妙な気を回して断るだろうと思ってな。強硬手段だ」
病床の退屈も紛れて良かろう――脚を無造作に組上げ、主君は可也の御満悦だ。他愛も無い稚気が齎した、予想以上の成果が小気味良いのだろう。見事に嵌められた司馬懿は、海より深い吐息で応えた。
「紛れ過ぎです…」
――確かにもう、頭痛どころではない。ではない、が。
殆ど今更ではあったけれども。失礼の無い様にと、牀から出ようとする司馬懿を、白い腕が押し留める。
「おいこら、勝手に起き出すな」
「ですが」
「病に寝込むお前など滅多に拝めないからな。折角見物に来たのだ、精々それらしく振る舞って貰うぞ」
「……はあ……」
判ったな、有無も許さぬ態度で押し切られて、司馬懿はひとまず大人しく床へ戻った。実の所、抗う為に必要な体力気力は相当消耗してしまっている。
主君の体面を守る為、あくまで「公子の使者」として通したものの、不審に思った時点で直接対面は避けるべきだったと、司馬懿は痛切に後悔する。少なくとも
寝室へ案内するべきでは無かった、愛しい相手を前に素気無い仕打ちなど出来ようか。そもそもこの事態も結局、混乱に乗じた相手の自然かつ巧妙な誘導と同等かそれ以上に、ただ如何し様も無く会いたいと願う己の潜在的な欲望が招いたのではなかったかと、苦笑を禁じ得ない。………如何なる場合でも、恋人の機嫌が良いのはまあ、とても嬉しい訳ではあるし。
「そう構えるな。心配しなくても、気が済んだら帰る」
それでも出来るだけ近寄らぬ様にと、牀の端まで身を引く相手を、曹丕は呆れて窘めた。何せ、上掛けの縁で顔の下半分を覆い隠す念の入れ様である。
「御気が済んだら、ですか…?」
「誰かの看病など初めてだし、満喫せねばな。光栄だろう?」
「…光栄、と言いますか…」
「――何だ、態々見舞ってやったのに不服か」
途端に険を増した曹丕に目障りな布を奪われながら、司馬懿は慌てて弁解する。衰弱した心身に、これ以上の打撃を受けては立ち直れない。
「い、いいえ!その、それは当然、大変嬉しいのですが……万一、お感染しする事になっては」
「柔な童子でもあるまいし、そう簡単に感染るか」
「しかし…」
「くどい」
反論はあっさり却下される。出来の悪い弟子に噛んで含める如く、にべも斟酌も無い口調で明瞭と。
「大体。そんな心配をする位なら、こんな問答に費やす時間こそ無駄ではないか?そんな暇があるなら、とっとと俺の気が済む様に努力する方が得策だろうが」
お前がその気なら即刻、感染ってやっても良いのだぞ。
…それは実に奇妙な、もの凄い、頗る効果的な脅しと云えたろう。決めたら引かぬ意志の強さは司馬懿の良く知る所で、曹丕の健康問題となれば因果関係など二の次だ。更に云えばそもそも寝込んだ方にこそ非がある訳で、身体の不調を差引いても勝ち目などある筈も無く、折れざるを得ない。
「………御意……。」
――兎に角。何であろうと為さりたい様に、一刻も早く満足して御引取り願わなければ。
至極当然、得たりと肯く恋人を前に。司馬懿は最早、覚悟を決める他はなかった。
* * *
「それでは、奥方は不在なのか」
「ええ、丁度実家に帰しておりまして…あと2日もすれば戻りますが」
他愛も無い雑談。傾けた茶盃の熱さに僅か眉を顰める、そんな仕種にさえ瞳は容易く奪われてしまう。それでも帰去を乞うた手前、外面だけは戒慎を繕わざるを得ない司馬懿の葛藤など全く意に介さずに、曹丕は落胆した様子で小さく肩を竦めてみせた。
「残念だな、一度会ってみたかったのだが」
「…………あれが居れば、この様な失礼はせずに済んだかもしれませんね…」
気が利く女だ。主人の不明にもそつなく対応するだろうし、双方の体面を慮りつつ、取次ぎも上手く回避したであろう。尤も勘も良い妻のことだから、典雅に過ぎる使者の正体すら察してしまう可能性も有得るけれども。
「成程、噂通りの賢妻なのだな」
「いえ、滅相も……」
感心して肯く曹丕が、司馬懿の館を訪れるのはこの日が初めてだった。時折周りを見回しては、もの珍しそうな表情を見せる。
(……本当ならもっと違う形で、失礼無くお迎えしたかったと云うのに)
全く如何してこんな状況になったのだか、しかもよりにもよって妻の話題。自業自得と云うか、己の犯した失策に目眩がして、司馬懿は知らず額を抑えた。
「――如何した、頭痛か?」
「え?……ああ、いえ、そう云う訳では――…っ」
否定するも間に合わず、白い掌が伸びて額に触れてくる。不意打ち気味の接近に、ただでさえ発熱過剰な司馬懿の体温は更に急上昇してしまって。
「…熱いな。お前、普段の体温が低いから尚更――横になった方が良くないか?」
「い、いえっ、大丈夫ですから!」
真剣な、気遣わし気なそんな瞳で、間近からまっすぐ見上げられる方が始末に悪い。御自身の挙措の殺傷能力と云うものを、もう少し自覚して頂きたいものだ――己の不甲斐無さを棚上げしつつ、頭を振って逃れた司馬懿は次こそ、激しい頭痛にうめいてしまう。思わず突伏す臣下の醜態に一つ溜息、やれやれと云った態で曹丕は席を立った。
「……全然そうは見えないが………ところでちゃんと食ってるのか?体力を付けねば如何にもならんぞ」
「え、ええまあ―――…あ」
そのまま足を向けた寝室の隅、卓上片付け忘れたままの食器に、気付いた曹丕の手が伸びる。蓋を開けば殆ど手を付けずに残された中身に、柳の様な片眉が跳ね上がった。
「…………喉が痛むもので、なかなか」
「ひとには普段散々、食が細いの太れだの言う癖にな。―――まあ良い、此れが役に立つと云うものだ」
「は…」
露呈した不覚、苦笑交じりに弁解する男を左程、追いつめる事はしないでやって。『見舞いの品』だと、曹丕は持参した包みを取り上げた。中身は紅く光る、艶やかな林檎。
「………私に、ですか…?」
一瞬呆けた後。感動の余りに当たり前の事を確認してしまう司馬懿を、曹丕はあっさりと無視した。色良い一つを選んで、手にした小刀をあてがう。
「まだ冷えているから、食べ易いだろう。待ってろ、切ってやる」
「そッ…!その様な、勿体無い…っ!!」
何処を如何考えても、主君にさせる様な事では無い。制止するべく慌てて身を乗り出す司馬懿には実の所、他の懸念もある。優雅な外見挙措からすれば意外な程に、手先の細かい作業は気質的技術的に不得意と云うか苦手と云うか――まあ要するに些か不器用と評すべき曹丕なのだった。自然、普段はこの手の役目は専ら、司馬懿が仰せつかっているのであって。指先を削りでもしたらと本気で危ぶむ、此方は必要以上に器用な側近の懸念を、ぴたりと向けた鋭い切っ先で主は封じた。
「黙れ病人。拒否権は認めない」
「ですが」
良い加減に観念しろと云うのだ――問答無用と、構わず剥き始めてしまった存外大雑把な恋人の手先を、司馬懿は固唾を飲んで見守る。刀剣も手綱もあれほど巧みに華麗に操る手指が、こんな時だけはやはり途端に覚束無くなるのだから、つくづく謎だ。心底気が気では無い。それでも司馬懿の祈りが通じたのだろうか、奇跡的にも如何にか大過無く、果実は衣を脱いだ様である。
「――っと。剥けたぞ、食え」
「…はあ…」
どこか得意気に差し出された皿の上、いびつな欠片を司馬懿はまじと見つめた。
確かに光栄には違いない、と云うか文句無しに嬉しい。否もう幸せで死にそうだ。しかしこれを口にしてしまえば、既に準備良く次の林檎を手元に此方を窺っている主君がどんな行動に出るか、余りに明白に過ぎて。愉悦と心労がない交ぜの、複雑な心境で躊躇し続ける司馬懿に焦れたのだろう、曹丕の声音が少し苛立つ。
「変な気を回すなと云うのに――――ほら!」
「っ」
白い指先が無造作に掴んだ一片の果実が、全く無理矢理、司馬懿の口内に押し込まれた。突然の強引過ぎる行為に目を白黒させつつ、如何にか咀嚼して嚥下した喉に成程、爽やかに甘く冷えた滑らかな食感は心地が良い。一息ついて呼吸を整えた男を見やって、曹丕は満足そうに笑んだ。
「…良し」
「―――――」
心底楽しいのだと云う態で、満面の。抗える筈も無くてただ見蕩れる。
完璧典雅な微笑も切裂く様に冴えた冷笑も、険や揶揄や毒を孕んだ嘲笑すらも、例外無く司馬懿を捕らえて魅了するけれど、こんな風に含みも衒いも無い素直な表情こそがやはり一番嬉しく思う。いっそ稚くも感じる稀なる風情を、目にする度に決まって司馬懿の胸は熱く痺れた。
目前の存在を大切にしたいと望むのは己の方で、至らぬ無様な失態など到底許容出来る筈も無い、それでも。
偶にはこんな日も良いのかも知れないと、紛れも無い喜びと幸いに酔う心地の司馬懿は内心、苦笑気味に呟くのだった。
* * *
至福のやり取りについ、手持ちの林檎を全て平らげてしまって。
それではと新しく運ばせた――無論曹丕の意向だ――温かい膳、じっと見張られながら食すのは何とも面映ゆい心地である。少し時間をかけて、それでも何とかあらかた器を空にした臣下の努力を認めたのだろう、曹丕は自ら薬湯を手渡して命じた。
「良し、ではとっとと寝ろ」
「………そう仰せられましても…子桓様の前で御無礼は」
「何を今更。五夜と空けず、
俺(の牀へ臥して居るのは何処の誰奴だ?」
臣下の身にすれば当然の主張は、恋人の直截な指摘で即座に一蹴される。
……まあ確かにそれは紛れも無い事実なのだけれど、其処は気持ちの問題と云う奴で、とは云え如何にも分が悪い。しばしの逡巡、結局白旗を掲げざるを得ない司馬懿の額に、冷たく濡れた感触。
「…子」
「これ以上暴れるなら、鳩尾に一・二発くれてやっても良いのだぞ」
その方が簡単だと、物騒な台詞を口に上らせつつ。瓶の冷水に浸した布を火照る額へと、曹丕は手ずから乗せてやった。主の直言実行は身に染みている、もう如何抗っても無駄な気がしたので、司馬懿も重ねて抵抗はしない。
高熱に鈍る、理性に任せ。素直に享受してしまえば、上掛けに添えられた掌の重みも額を定期的に掠めていく体温も、些か多過ぎる様にも思う濡布の水気すらも、全てが余りに心地良い。否は言わせぬと威嚇にも似た風情で見下ろしてくる、長い睫毛に彩られた紫暗の瞳にはそれでも確かに、労わり慈しむ様な光が漂って。
二人だけの、こんなにも静かで穏やか――あくまで司馬懿が従順でいる限りは、だが――な時間は、随分と久方ぶりの様な気がする。激務に追われる身には、恋人を抱いて眠る夜のひとときを保持するだけで日々精一杯、と云う感の最近であったので。それは司馬懿の本意では到底無かったが、さりとて上司・曹操の要求に腑抜けた対応をする訳にもいかない。恋人の偉大なる父親はどんな命令も何を献策させるにも素知らぬ顔で、しかし常に鋭い目でもって司馬懿を試しては値踏みしているのである。その審理眼も識見も流石に希代とは思うが、主君として仕えたいかと云うと話は別だ。司馬懿には他に、唯一無二と決めた主が既に居る。手強い覇王に此方の能力と誠意を認めさせ、一刻も早く曹丕の元へ戻り働きたい。誰より傍で支え守りたい。その熱望こそが、今の司馬懿を衝き動かしているのだった。
(――直ぐに、
其方(へ参りますから…)
音には出さないその代り。誓いの証と伸ばした司馬懿の手は、虚しく空を掴んだ。白い指は一瞬先、するりと逃れて濡れた布を取り上げる。如何やら此方の空振りは見過ごされたらしい、安堵しつつもやはり気恥ずかしく、密かに苦笑して主の挙措を目で追う司馬懿は拍子、ふと気付いた。
(…先刻からもう何度、この作業を繰り返された?)
四半時すらも経っていない、ほんの短い間だと云うのに、かれこれ十回近くは反復している気がする。つい今しがた取り替えられる前の布とて、まだ左程温くなっていると云う訳でも無くて。
「…………あの、子桓様。そんなに頻繁に替えて下さらずとも結構ですよ?」
「何だ、そう云うものか?」
甲斐甲斐しい気遣いは嬉しいが、繊細な手指が冷たい水に被る負担を危惧する相手に、曹丕が小首を傾げてみせる。
「これ位の間隔だったと思ったが……記憶違いか、熱がある時はやはり駄目だな」
「は…?」
一人で得心する恋人の真意を掴み兼ね、今度は司馬懿が首を傾げる番である。上体を僅か起こした姿勢で促す様に覗き込まれて、曹丕はわからぬかと肩を竦めた。
「言っただろう。看病など初めてなのだ、全く手本通りにするしかあるまい?」
「…『手本』?って…――――…あ…」
瞬間、司馬懿の脳内である記憶が弾けた。
…そうだ、これは。
「……私、の―――…?」
あれは確か、抱き合う様になってまだ間も無い頃。
風邪をひいて臥せっている曹丕の元へ、司馬懿は半ば強引に押しかけたのだった。
果実を持参し粥を運ばせ、薬湯を用意して。眠りにつくまで額を撫でて、目を覚ますまで傍に居た。……云われて思い返せば成程、曹丕の行動は全くそれを忠実になぞったもので。
「………覚えて、いて下さった…?」
「莫迦にするな。幾ら意識朦朧でも、それ位は認識出来る」
「あ、ああいえ、そう云う意味では―――」
遇され様が気に入らぬのなら、自業自得だからな――そう言って憮然と寄せられる眉根に弁解しながら、司馬懿は病床の主を脳裏に描いていた。薬師も家人も寄せ付けない、静かな寝室を。
発熱していてさえ何故か凍る様な領域へ踏込んで来た侵入者を、曹丕は初め全身で拒絶した。不躾無礼と叱咤して、伸びてくる掌を容赦無く打ち払って。散々邪険に扱われても一向に怯まず離れない男にいよいよ観念したのは、手応えの無さに抗う気力も尽きてしまったその後の事。
――落ち着かないのだ、と。
頗る不機嫌な表情で横になりつつ、それでも怒ると云うより何処か言い訳の様に呟いて。知れず逸れて揺れた瞳を、司馬懿は忘れる事が出来ない。その紫玉が諦めに伏せられ、浅い寝息が零れる頃ですら、時折微か触れる司馬懿の指先に、薄い身体は絶えず慄いた。
他者から世話を受ける事、己の弱みを晒す事に、曹丕が慣れていないのは明白だった。それは四六時中、父親の視線を痛々しくも過剰に意識し振舞う事が習いとなった青年に侍る、司馬懿の想像に全く難い訳も無い。心中隈なく広がる苦みと共にむしろ、仕方無しと納得すら出来たものだ。しかし。
「―――本当に、誰にも…」
「……仲達?」
訝る主に唇を噤み、ただ僅かに頭を振って司馬懿は応えた。宥める様に、上手く微笑えたのだか、如何か。
苦手だとか不慣れとか云う事と、
知らない(のとではまるで意味合いが違う。司馬懿の示した「手本」に行動が全く逸脱しないのは、他に参照すべき経験を持たないからに他ならない。取立てて強壮な性でも無い筈の公子はずっと、おそらく全てを斥け続けてきたのだろう。それこそ自然な程に典雅に、完璧なまでに頑なに。
例えば孤高なる気貴さ、強靭な意志。主の驚嘆すべき美質に潜む、癒えない瑕を司馬懿は
解(っている。苦しい時、本当に苦しいからこそ独りになろうとした、それは同時に脆さの証でもあるのだから。
誰も届かない、離れた場所で。ひっそりと横たわる美玉の、哀しき
切望(は果たして、見事に叶えられてしまった。寂しく冷えた褥は危くも、安寧なる居場所ではあったのだ。疼く数多の瑕さえ、慣れて望めば見過ごす事も出来たろう。――けれども。
無遠慮なまでに真摯な司馬懿の掌を、例外的に曹丕は許した。最初は単なる気紛れか、全くの不本意か。それでも厭かず触れて乱していく
温度(を、途惑いながら受け入れて。ぎこちなくも確かに返る微かな応え、その実感は司馬懿にとっていつでも奇蹟そのものだった。生まれる甘い喜びも、切ない痛みも。
――或いは。静謐なる聖域を犯した、他ならぬこの腕こそがいつか、貴方を手酷く傷付けるのかも知れない。
そんな不吉な危惧も畏れも妄執も、許されざる昏く密やかな愉悦すらも。
司馬懿には全てが、如何仕様も無く。……泣きたい程に狂おしく、愛しかった。
* * *
「――――誰か!」
絡まる視線に痺れて溺れかける、その寸前。
「使者殿がお帰りだ、支度をする様に」
「は」
如何にか意を決して、司馬懿は別室の従僕を呼ばわった。「公子の使者殿」を返礼の品と共に送り出す用意は直ぐに整う筈。扉の向こうで動き出す気配、曹丕にすれば突然の展開で、先までの沈黙と同様に納得出来る訳も無い。
「おい、勝手に…」
「子桓様」
やわりと遮った微笑の蔭に、複雑な
心境(は完全に押し隠されて、覚られる事は無かっただろう。至極当然の抗議を巧妙な呼吸で封じながら、司馬懿は穏やかに言葉を紡いでみせる。
「今日は有難う御座いました。こうして居たいのは山々なのですが――生憎、忍耐力がもう限界の様です」
殊更に平静を繕ってはいても、司馬懿の自制心は酷く覚束無くなっていた。脳髄が痺れる感じ、振幅激しく揺れる感情はまるで綱渡りの様。少しでも気を抜けば、身体の全てが魂が求めてやまぬ衝動へと、理性は容易く転げ落ちてしまいそう。病魔の所為と弁解は出来ない、それは健やかなる常においても侭有ることだったから。
「抱き締めて、触れて、口付けて。……明日までお離し出来ない様では、流石に感染してしまうでしょう?」
「―――っ、な…」
戯けた睦言、瞳に宿る焔を苦笑で誤魔化す事はしかし不可能で。間違いなく本気の男に、やりかねないと曹丕は内心思わずたじろぐ。それでもただ理不尽に翻弄されるなど、彼の矜持が許しはしない。一息おいて体勢を整え、悪態を吐いてみせた。
「………わかった。莫迦な病人が無理をして、悪化されても困る」
「有難う御座います」
父上に申し訳が立たぬからな――了承して席を立つ主に、司馬懿は安堵する。愛しい相手を病床の道連れに望む、不遜かつ不埒な大罪は如何やら犯さずに済みそうだ。それでも少し残念に思ってしまうのは、自然ではあるが身勝手な所感と云うものだろう。無論、充分に承知しているつもりではあるけれども。
「何としてでも、明後日には出仕致しますから」
自戒しながらも、両肩が落ち気味になるのは致し方ない。弱々しく笑む哀れな僕にしかし、恋人は冷たかった。非情なまでにあっさりと背を向け、当て擦る様に言い放つ。
「無理をするな。偶には仕事も我侭な
公子様(も忘れて、ゆっくりするが良い。丁度、奥方も戻って来ることだしな」
「子桓様、そんな…っ」
…病床の身にあらずとも、あんまりな別れ方に違いない。殆ど縋るみたいに、司馬懿は慌てて身を乗り出す。応えて翻る端正な頤に喜んだ瞬間、影が不意に近付いて距離感が消失した。
呼声を飲み込む様に、唇に軽く押し付けられた柔らかなもの。
良く識る感触であった筈、けれどそれが口付けだと司馬懿の頭が理解する前に、微かな音を立てて繋がりは解かれてしまって。
「…………は…」
「―――去り際に。嫌だと云うのに、無理矢理してのけて帰ったな、お前は」
覚えてるぞ、病人相手に
性質(の悪い――予想外の事態に呆然と固まった相手を、剣呑な口調で詰りながら。少し屈んで合わせた目線、曹丕は些か悪質に笑んでみせる。
「仕返ししてやったまでだ。文句が在るか」
「――――――……」
……否。挑む様なその微笑はむしろ、頗る蟲惑的。
殊更素気無く響く声音も、重なる吐息も何もかも、文句など在る筈が無い。咄嗟に気の利いた応答も出来ず、ただ夢現に頭を振るだけの司馬懿を見遣る満足気な表情。それから幾許かの照れやら焦れやら、認めてしまって目眩がする。
――極上の幻惑にこのまま、甘えても良いだろうか。
いっそ呆れられてしまいそうだと、危ぶみつつも。律し兼ねた司馬懿の指は遠慮がちに、主の袖口を捕えてしまう。仰いだ頬を擽る、艶やかな髪の感触はやはり如何にも離し難い。
「最後にいま少し…性質の悪さを発揮しても宜しいでしょうか…?」
「…病人とは全く、我侭だな。仕様も無い」
止めど無く生じ溢れる熱。うかされた男の懇願を、溜息含みに曹丕は揶揄した。端正な唇はけれど、誘う様な笑みを深くする。惹き寄せられて狭まる距離は、幸運にも咎められずに。
「――どうせ、感染ったらお前が看病するんだろう?」
皮肉交じりのそれは承諾。
光栄ですと、微苦笑で応えて。
司馬懿は名残に刹那、恋人を深く掻き抱いた。
風邪ひき司馬懿話。「願い」の続きと云えば続き、か?
林檎あーん、とオトコマエちゅっvがひたすらに書きたかったと云う(笑)
初出は章ごとに連載してたやつなんで、流れがブツ切れてるは平にご容赦を。