風の、ひときわ強い夜。
月明かりだけを頼りに、孫策は一人、自室へと向かっていた。
部屋の前に立つと、確かに人の存在を感じる。慣れ知った気配。躊躇することなく、孫策は扉を開け放った。
「お帰りなさいませ」
灯り一つ点けない、暗い室内。まず冷静さを感じさせる声が、闇のもたらす静寂を破った。呂範。その柔らかな物腰と鷹揚な微笑みをもって、長者の風格を称えられる男。――その静けさの中に、全てを灼きつくすばかりの炎を抑え持っていることを、孫策だけは知っていたけれど。
「ああ」
応えて入室した孫策の衣服から水滴が滴っていることに気付いて、呂範が眉を顰める。春が近いとはいえ、夜半の空気はまだ肌寒い。
「お召し物が」
「そこの井戸で、水浴びをな。――体中、酒臭くてかなわない」
軽い調子でそう言って、孫策は前髪を無造作に掻きあげた。淡い色調の髪も、衣服と同様水気を含んでいる。
「もっとも飲まねば、あんなジジイの相手など出来ないが」
「……伯符どの」
孫策の言葉に、呂範の声音が変わる。
この夜。孫策は「主君」である袁術の館に呼ばれていた。父を亡くし、拠って立つ場所を失った孫策を、袁術が息子のごとく寵愛していることは、軍の内外に良く知られたことであった。現にこうして、一、二ヶ月に一度は宴にと声がかかる。
部下の様子にくすりと笑うと、孫策は濡れた髪を解いた。そうして呂範に目を遣り、言い放つ。
「着替える。手伝え、子衡」
このような時。普段何より毅い生気を湛えた孫策の瞳や表情は、危うい程の艶を含む。窓から漏れる月明かりが、この青年の持つもう一つの側面を照らし出すかのように。孫策の母は、彼を身篭った折、月を宿す夢を見たという。月光を映し出す主君の瞳に魅入られながら、そんな挿話を、呂範は思い出していた。
男の長い指がゆっくりと動いて。自らの身体が水を含んで重くなった衣服から開放されていくのを、孫策は他人事のように見ている。日に灼けた滑らかな肌。微かな月灯りの元でもそれとわかる、しなやかな身体の線。それはよく鍛えこまれてはいたが、決して逞しいと言えるものではない。
ふと、呂範の手が止まる。主君の、まだ微かに少年らしさを残す身体に、痣のような痕を認めて。首筋に、肩に、胸に。無数に散らばる真新しい――屈辱の、痕。
洗い流したかったのは、酒気だけでは――ない。
「――猿、ごときが」
搾り出すように、吐き捨てられた声。呂範の常に涼しげな面が、絶対零度の気配を纏う。瞳に宿る極寒の炎。抑えているが故に、その熱はより高温く、火焔はより激しさを増していく。
孫策が袁術の元に呼ばれる夜。彼が戻ると決まって、呂範が部屋で待っていた。闇の中にただ一人、じっと目の前を見据えながら。何を、思っているのか。――問う必要すらあるまい。
「……確かにな」
そんな相手を宥めるように、孫策が続ける。
「言い換えれば、あいつはただの猿に過ぎん。噛まれたとでも思えばいい」
唇に浮かぶのは、嘲るような笑み。名門の出だというだけで。何もかもが手に入ると思っている、愚かな男。――あのような輩に、煩わされてたまるものか。
「――こんなのは、どうってことない」
「―――」
努めて感情を表さぬように。言い放った孫策を、呂範は背後から抱きしめた。
このような事態。誰より自由であるべきこの存在にとって、どれ程屈辱的な状況であろうか。それでも。何があっても、それに汚されまいとする誇り高さが。魂を焼くような無念さをすら、糧に変えようとする強さが愛おしくて。それをただ、見ているしか出来ない自分が不甲斐なくて。呂範は無言のまま、その腕に力を込める。
「……濡れるぞ?」
「構いません」
その答えに軽く微笑うと。包み込むように強く抱きしめる腕に、孫策は身を任せた。
――嘲笑
「主」の顔を思い出して。孫策の瞳が、虚空を見据える。遠く、強く――激しく。
「――いつか。ここから出てやる。自分の力で、必ず」
その視線に、口調に。込められるのは、苛烈な程の決意。痛い程の。
「必ず。――必ず、だ」
「――御意」
自らに言い聞かせるように繰り返す孫策に、呂範は瞳を閉じる。
――必ず。近い将来、この風が解き放たれる時が来る。解き放ってみせる。その時は。
決して。
彼を戒めていた全てを――赦しは、しない。
孫策の頬が、月明かりを映して光る。
それを濡らすものが何であるのか、確かめることはせずに。その首筋に、呂範はそっと唇をあてた。
正史お墨付き美青年孫策さんの受難が書きたかったので。(えぇー)
普段のウチ孫策のイメージだと袁術に大人しくどうこうなんて絶対されない気がするので
このバージョン策は多分これっきりだと思う。楽しかったけど!←
「月」云々のエピソードは結構好きです、単純勇猛なだけの人とはあんまり思えない。