人里離れた、小高い丘の上。
 良く手入れされた栗毛の駿馬が一頭、佇んでいるのを目に留めて、呂範は馬を降りた。栗毛の傍らに寝転がる人影に、ゆっくりと近づく。眠っているのか、呂範が傍らに立っても、相手は目を開けない。そのまま屈み込むと、呂範はそっと、その首に手をかけた。ほんの少し、力を込める。
「――過激な起こし方だな、子衡」
「おや、よくわかりましたね」
 瞳を開けることなく発せられた声に、呂範が笑って答える。その口調に、起き上がった孫策は相手を睨み付けた。
「当たり前だ。こんな物騒な事する奴が、他にいるか」
「どちらが物騒ですか。こんな所で一人、寝入っているなんて」
ちらりと投げかけられる呂範の非難めいた視線に、孫策は少し身構えた。少々旗色が悪い。
 孫策が一人、供も付けずに出歩くのは今日に限ったことではない。それは、窮屈さを嫌う彼の昔からの性癖だったが、広く江東に覇を唱える立場となった今、万人が軽挙と諌めるのは無理からぬことであった。何度諭されようとも、彼が行動を改めることはなかったが。
「…ちょっとうとうとしてただけだ」
 孫策とて、部下たちの抱く危惧は承知している。自然、反論は弱いものにならざるを得ない。だが、相手はそこで勘弁してくれるほど甘くはなかった。
「こんな近くまで来ても気付かないのでは、同じことです」
「気配消して近づくからだろ!」
「寝込みを襲うような輩が、名乗りをあげてくれるとは思えませんが」
 う、と詰まった主君を、呂範は容赦なく追い詰める。
「――もう少しで。私は、貴方を殺せましたよ、伯符どの」
「…子衡?」
 相手の口調に、瞳に。真剣さとただならぬ意思を感じて、孫策が逸らしていた視線を上げた。視線が、交錯する。
「もし私が敵の間者だったら、どうなさるおつもりですか?」
「――?違うだろ?」
 間髪も入れない、孫策の声。
「お前は、違う。何の問題がある?」
 あっさりした、けれども確かな自信に満ちた口調に、呂範は虚を衝かれて息を呑んだ。一瞬の沈黙の後、体勢を立て直し反論する。
「――そう云う問題ではないでしょう」
「そーゆー問題だって」
「伯符どの」
「……悪いと思ってる、皆には。けど」
 咎めるような口調の呂範に、改めて向き直って。孫策が言い放つ。
「いつも、館でじっとして。ぞろぞろと供を引き連れて歩いて。――それが、俺か?」
 その口調。不敵な笑み。相手を真っ直ぐ見つめる、毅い――誰よりも毅い瞳。
「馬鹿で子供ガキで無鉄砲で。それが、お前達の主じゃないのか?」
 全てに感じる、意志の強さ。これが。

 ――これが、我らの主。

「……伯符どの」
 魅入られたように、咄嗟に反論できない呂範を見て、孫策はに、と悪戯っぽく笑った。生気に満ちたこの青年には、悪童めいた表情がよく似合う。
「――てな結論が出たところで。俺、もーちょっと寝るから」
「…な…」
 呆気に取られる呂範を横目に、草の上に倒れこみ。
「問題ないだろ?心強い護衛もいることだしさ。――んじゃ、お休み」
 言うが早いか、孫策は軽い寝息を立て始めていた。



「……まったく」
 静かになった主君のそばに腰を下ろしながら、呂範は苦笑せざるを得ない。
 こうしていつも、うまくはぐらかされてしまう。誰一人の例外もなく。
 それはおそらく、案じているはずの主君のこの気性を、心底では誰もが貴重な、好ましいものと思っているからに他ならないだろう。だからこそ、板挟みともいえる彼らの気苦労は増えるのだが。
 ――困った方だ。
 隣に視線を落とすと、その元凶である筈の青年はさも心地良さげに眠っている。今回は「護衛」がいるということで、本格的に寝に入ったらしい。その寝顔を見ながら、呂範は先程の孫策の言葉を思い出していた。
 ――「違う」、か。
 それは間違いなく、信頼の言葉。ごく当然のような。
 ――光栄、と言うべきなのでしょうね。
 確かに、うれしいと思う。事実、年若い主君がまだ袁術の配下にいた頃よりずっと、呂範はただ彼の為だけに働いてきたし、これからもそれは変わらない。変わる筈もない。
 ――けれど。
 心の奥底に、それだけでは言い尽くせない感情があることを、呂範は自覚していた。

 ――信頼などではない。
 私が欲しいのは。

 呂範の手が伸び、そっと孫策の首筋に触れる。

 ――このまま。
 ここに縛り付けてしまえるのなら。

 常に、誰より先を見据えるその瞳。
 休むことを知らない、その翼。何者にも妨げられない、自由つよさ。
 誇りだと思う。心から。
 けれど。
 守りたいと。支えたいという願いとは裏腹に。
 時と共に強くなる、暗い欲望。

 手に入れたい。

 貴方が、欲しい。


 主君の首に、両手をかける。
 熟睡している主君は、身じろぎすらしない。今なら。

 ――『貴方を、殺せる』――

 そうすれば。貴方は、私のものになるのだろうか。


 私だけの、ものに。



 永遠のような一瞬が、過ぎて。
 長い指から、ふ、と力が抜けた。
 呂範の端正な唇から笑みがもれる。
 自嘲的な。どこか諦めたような――悟ったような。

 ――出来る筈もない。

 わかっている。そんな事は。
 貴方の傍にありたい。
 貴方と共に駆けたいと――出会った瞬間、そう望んだのは、私。
 苦しくても。貴方を手に入れられなくても。
 自分を一生、殺し続けても。
 ――どこまでも、貴方と。

「……とんでもない護衛をつけたものだ、貴方は」
 身体を、離しながら。
「君子面している輩ほど、何を考えているやら知れないものですよ」
 言って。何も気付かず寝息を立てる孫策の髪に、そっと口付け。
 そうして、微笑う。
 その笑顔は既に、いつもの穏やかさを取り戻していた。

大人で穏やか、君子然としながらもその実激しい…そんな呂範殿が理想です。
普段は孫策のよき兄的な立場にありながらも、それが苦しいこともある、と。
時には不穏な欲望を自覚しつつ、それでも結局は箍を外して暴走なんて絶対しない、
そんな安定感と云うか理性の枷が好きなCPです。つまりは範→策なんだろうなぁごめんなさい。