残 夢

 乾いた風が、戦場特有の匂いを運んでくる。
 汗と泥と――血の匂い。
 激しい戦闘の後の荒野は、流された大量の血で赤く染まったかのように見えた。
 それらを見下ろして、馬上の少年が小さく身震いする。
 命はこうも簡単に失われてしまう――それがこの乱世の常識であることはわかっていたが、初陣の少年にとって、その事実はやはり重いものであった。
「――怖いか?」
 前をゆく人からかけられた言葉に、びくりとする。
 広い背中。少年は、とっさに否定できなかった自分を呪い、唇をかんだ。
「――・・・・」
「俺も、怖いさ」
 少年が、はじかれたように顔を上げる。
 いつのまにか、主君であり、族兄でもある男がこちらを向いていた。日に焼けた顔に微笑をたたえて。
「だが、俺にはやりたいことがある。――立ち止まってなどいられん」
「――殿・・・・」
「いいか、伯海」
 ――力強い声。
「俺を、信じろ。恐ろしい時には、俺だけを見ていろ。・・・・今は、それでいい」
 ――迷わない瞳。
「その程度には、頼りになる男だろう?俺は」
 ――頼もしい笑顔。全てに安堵して、少年は微笑む。

 ――駆けて、ゆけるかもしれない。
 どこまでも。この主君とともにあれば。・・・・このひとの、為ならば。
 ――誰よりも強い、この「江東の虎」の為ならば――・・・・・・

∽∽∽

「――よう、伯海」
 ようやく満ちた月が、厚い雲によって隠されてしまっている、ある夜。
 愈河の部屋に、彼の主君である孫策がやってきたのは夜半すぎ。
 このように急で、なおかつ非常識な訪問は、幼い頃から相知る仲だから、というよりも、むしろ孫策本来の無頓着さに帰するものであろうと思われた。
「・・・・伯符、か・・・・」
「ごあいさつだな。何かもうすっかりできあがってるみたいだし」
 他に人がいない時は、彼の態度は昔通りのものとなる。
 人がせっかく差し入れに来てやったってのに。孫策は不平を唱えながら、足元に散らばる酒瓶を軽く蹴飛ばすと、その場にどっかとすわりこんだ。
 子供っぽい所作。
 実際孫策はまだ若い。一族の長としては、若すぎる程に。
 半年前、長沙太守であった孫堅が、黄祖の刺客によって暗殺された。すぐにその後を継いだ長子の孫策は、まだやっと17歳でしかない。孫堅が存命だった頃の五万にもなる部曲は、盟主であった袁術の傘下におさめられてしまい、孫策はごくわずかな手勢のみを従えてここ江都に逗留しているのだった。
 しかし、彼の表情に翳りはない。
 どんな逆境の時も、憤慨することはあっても、悲嘆することは決してない。
 それはこの少年の、まぎれもない長所であった。
「――それにしても珍しいな。お前が、手土産持参で来るなんて」
 いつも散々、飲み食いするだけして帰るくせに――愈河が、皮肉な笑みをうかべる。涼しいと騒がれる切れ長の瞳を持つ彼には、その表情が最も良く似合った。
「だーっ、もう!いちいちムカつく奴だないつもながらっ!この俺様が、直々に酒に付き合ってやるって言ってんだよ!!」
 自覚があるのか、孫策はいささかきまり悪げに悪態をつくと、ころがっていた杯をいきおいよく投げつける。
「・・・・それはそれは。恐悦至極に存じます」
 その杯を難なく受け止めた愈河は、不敵に笑うと、それを主君へと差し出した。


 今でこそ主従であるとはいえ、もとは従兄弟と言っていい程の間柄である。
 二人になれば、何の気兼ねもなく話をする。
 城下の噂話や、馬の話。袁術に奪われた兵のことや――これからのこと。
 大抵の場合、話すのは孫策である。この少年は、豊かな感情をあらわにしてよく話す。愈河は、相づちを打ったり茶々を入れたりと、聞き手に回ることが多い。それは昔から変わらないことなのだが、特に最近の孫策には、そうすることが一種の気晴らしとなっているようだった。
 率いるべき兵もなく、頼るべき味方もいない。その上、ここ徐州を統べる牧である陶謙は、猜疑心が強く、孫策を忌み嫌っている。
 このような現在の状況は、このいささか無神経とも思えるほどに活達な少年にも、いくらかこたえるものであるらしい。
 しかし、今夜は様子が異なるようだった。
 愈河の目の前に座りこんだ孫策は、持参した酒を黙ってただ舐めているばかりである。
「――それにしても、よくひとりでこんなにあけたもんだな」
 愈河の探るような視線に気づいたのか、孫策は、あたりに散乱する酒瓶をとりあげて言った。
「伯海が底無しなのは知ってるけどさ。――全然、酔ってないわけ?」
「自覚はないな」
 そう言って笑う愈河の怜悧な顔や、皮肉な笑みをたたえる薄い唇には、酔いの色はまったく見られない。
「お前こそ、酔ったんじゃないのか?それっぽっちで」
「!――酔ってねえよ!!」
 ムキになる孫策を、愈河が涼やかに一瞥する。
「なら、そのらしくない行動の理由をさっさと話すんだな。――本当は何しに来た?伯符」
「――っ・・・・」
 つまる孫策。しばしの沈黙のあと、愈河の笑みをふくんだ、しかし鋭い視線にため息をつくと、降参、といった態で両手をかざした。
「――別に・・・・言った通りだよ。酒の相手してやろうと思って」
 孫策は、そこで一息つくと、愈河をまっすぐに見据えて続けた。
「なんか今日・・・・様子がおかしいような気がしたから、さ」
「――・・・・」
 愈河が、軽く目を見開く。
 愈河は、他人に自分の本心を悟られるのを嫌う。常に口元にたたえられた皮肉な微笑は、この上なく効果的な彼の韜晦の手段であった。なのに。
 ――気付いて、いたのか――
 無謀とも言えるほどに大胆で無鉄砲。その上どこか抜けたところのある孫策は、皆の心配の種に事欠かない。そんな彼の持つ特性の一つに、尋常でない程の勘の良さがあった。全くの無意識のうちに、おそらく本能的に、物事の本質をとらえることができる。その能力は対人関係においてもいかんなく発揮されているようで、彼の突拍子もない、しかし確かにどこか核心をついた言動は、人々を驚かせることが少なくなかった。
 ――この乱世を生き抜くための、天性の素質、か・・・・――
 いくばくかの沈黙のあと、愈河は軽く笑って答えた。
「・・・・夢見が、悪かっただけだ」
「お前がぁ!?」
 その答えに、孫策は納得しない。――そうだろうな、と愈河も思う。
 しかし、嘘ではない。本当に夢を見ただけだ。
 昔の、夢を。
 ――あれはもう、何年前になるだろうか。
「そんなの、信じられるか!たかが夢くらいでへこむようなタマじゃねえだろ、お前は!!」
 心配してやってんだぞ俺は、といきり立つ孫策を横目に、愈河は杯を一気に干す。

 ――そう、たかが夢だ。それなのに。
 なのに何故、こんなに心が乱れる。

 自嘲が音声となって、愈河の口からこぼれる。
「――っ!伯っ・・・・!!」
 顔を掌で覆って、くっくっと笑い出した愈河を、怒鳴りつけようとする孫策だが。すぐに、その笑い方がおかしいことに気付く。
 それはまるで、泣いているかのようにも聞こえて。
「・・・・伯海・・・・?」
 気遣わしげな孫策の呼びかけにも、愈河は答えない。

 ――笑うしかなかった。
 昔の夢を見ただけで。それだけで、変調を来す自分が滑稽で。・・・・哀れで。

 自分は、それほどまでに求めているのか。
 彼の人を。唯一無二と信じた彼の人を。

 ――もう二度と会うことのできない、彼の人を――・・・・

「おい・・・・?」
 急に笑いを納めて沈黙した愈河の肩を、孫策がつかむ。その心配そうな顔に、愈河は視線を移した。
 まだ幼さを残した、整った容貌。色素の薄い髪と瞳。焼けた肌。
 全てに、亡き人の面影を認める。おそらく、彼の人の血をもっとも色濃く受け継いでいるであろう、少年。
 愈河はゆっくりと手を伸ばして、孫策の頬に指を触れた。
 孫策の瞳が、まっすぐに見上げてくる。彼の人と同じ色の。愈河の顔が、一瞬歪む。
「――伯、海・・・・?」
 目前のその瞳に吸い込まれるように、愈河はゆっくりと孫策に近づいた。
 唇が、触れ合う。
「 ――っ何、す・・・・!」
 一瞬の、自失。
 その後すぐに振り上げられた孫策の拳をかわすと、愈河はその手首をとらえた。
「――いい加減にしろよ、伯海。俺は、こういう冗談は・・・・っ」
「・・・・冗談だと、思うか?」
 孫策の、明らかに戸惑いと憤りを含んだ硬い声に、愈河が答える。口元に、常通りの皮肉な笑みを浮かべて。しかし、その瞳は全く笑っていなかった。ハッとする程寂しげな――苦しそうな、瞳。
 思わず息をのんだところを引き寄せられ、孫策は抗う。
 いくら武芸に秀でているとはいえ、とても筋肉質だとはいえない少年は、7歳年上の男の力に抵抗することはできないようだった。そのまま、押し倒される。
「やめ、ろって・・・・っ!男だぞ俺っ・・・・!!」
「知ってる」
 押さえ付けてくる腕から何とか逃れようと努力しながら、孫策は、間近に迫る相手の瞳をまっすぐ睨み付ける。
「――っ・・・・やっぱ酔ってるだろお前・・・・っ!」 
――その瞳に、煽られる。どうしようもなく。
「・・・・そうかもな」
 自虐的に笑って、愈河は答える。
 ――おそらく、自分は酔っているのだろう。
 酒にではなく、夢に。
 もう会うことすら叶わない、彼の人への想いに――。
「・・・・どうして、そんなに似てるんだ」
「・・・・え・・・・?」
 絞り出すような愈河の声を、孫策が聞き咎める。
 それに答えることなく、愈河は孫策を抱きしめた。

「・・・・破虜、さま・・・・っ・・・・」
「――――!」

 音声にすらならないのではないかと思われる程に、切ない声。
 思わず口にしたのは、求めてやまない人の名で。
 ――次の瞬間、孫策が身体の力を抜いた。

∽∽∽

 初陣は、16の時。それ以来多くの戦場に赴き、長じてからは常に孫軍の先陣をつとめてきた、剛胆で人をくった青年は、本当に珍しく途方に暮れていた。隣には、昔から弟のように思ってきた少年が、肩から衣を羽織っただけの姿で寝そべっている。
 ――こんなことに、なるとは――・・・・
 あまりの自己嫌悪に、呆然とする。
 愈河のそのようならしくない様子に、孫策は吹き出した。
「――なーに呆けてんだよ、らしくもねー」
 くっくっと笑って続ける。
「ま、ベコベコにへこんじまってるよかマシだけどさ」
「・・・・伯、符・・・・」
「――ちょっとは、楽になったか?」
 見上げてくる孫策に。
「――悪かった・・・・伯符。俺は・・・・」
 愈河が、思い詰めた口調で謝罪する。なのに。
「あー、いーよ別に。男だしな、俺」
「――・・・・」
 常の調子であっさり答える孫策に、愈河は絶句した。
 このあたりの無頓着さは、彼の子供っぽさに由来するものか、それとも。
 それとも、尋常でないほどの器の大きさを示すものなのか・・・・。
 はかりかねて、空を仰ぐ。どちらにせよ、救われたような気持ちになっていた。 
 ――かなわない、な。
「――なあ、伯海」
 愈河の、そんな心情を知ってか知らずか、孫策がじっと彼を見つめて問いかける。
「・・・・何だ?」
「伯海は・・・・父上を好きだったんだな」
「――そうだな」
 一瞬息をのんだ愈河は、目を伏せると静かに肯定した。――この少年の瞳を、ごまかすことはできそうもない。
「そっか・・・・」
 言うと、孫策は突然、愈河の襟元をつかんで引き寄せた。
 当然、間近から孫策が見上げるような形になる。
「――な・・・・」
「・・・・お前が父上を忘れられないのは、当然だと思う。俺だってそうだし、これからも忘れるつもりなんて全然ない。――だけどな」
 ――意志の強さを感じさせる、声。
「俺は、父上の代わりになる気はない。父上のようになりたいとは思うけど、父上にはならない。――俺は、俺だ」
「・・・・伯符・・・・」
「いいか、伯海」
 ――生気に満ちた、笑顔。
「俺を、見てろ。父上じゃなくて。――俺と共に在るのなら、俺だけを」
「――・・・・!」
 ――まっすぐに見つめてくる、薄茶の瞳。
 彼の人によく似た、迷いのない。誰よりも、強い光を宿した。――おそらく・・・・彼の人よりも。
 その瞳に魅せられたように沈黙する、愈河の衣服をつかんでいた手を離すと、孫策は再び横になった。
「そんだけは、ゆっとく。――今日は、泊めろよな」
 そう言っていくらもたたないうちに、孫策は規則的な寝息をたてはじめる。相変わらずの寝付きの良さに、愈河が思わず苦笑を漏らした。――今日ばかりは、やはり身体への負担が小さくなかった、ということもあるのかもしれないが。
「――言うじゃないか、子供のくせに」
 孫策の肩に、自らの上衣を掛けてやる。
 すでに熟睡している孫策は、愈河の声に反応すらしない。

 ――『俺を、見てろ』――

「効いたぞ、今のは。・・・・まったく、父子そろって・・・・」
 苦笑混じりの溜息をついて、空を仰ぐ。

 ――『俺だけを――』―― 

「――いいだろう」
 知らず、笑みがこぼれる。それは、先刻までの苦しげなものとはうって変わった柔らかさで。
「見せてもらおう、伯符。お前が、何をするのか。いつまでも――どこまでも、な」
 孫策の安らかなあどけない寝顔に、愈河は語りかける。ふっきれたような楽しげな声。――彼に聞こえていないことは、わかっていたが。
 そうして。
 失望させてくれるなよ、と笑った言葉を、いつしか雲間からのぞいていた月だけが、聴いていた。

父子二代に渡ってまんまと誑かされる愈河さん乙(笑)
朝香三国志の彼が好きな筈が如何してこうなった、とは思わなくもないです…。
ウチの策は結構けろっとした感じ。別にこの後も恋人になるとか変に意識とかし合わないの希望。
しかしコレ初書き三国小説だった気がするのに…初っ端から受け策全開とか三つ子の魂すぎる(笑)