贈 物

 誰にでも、苦手な相手というのはいるもので。
 「冷静沈着、無表情」を絵に描いたような彼、司馬懿においても例外ではなかった。
だから、人気の無い長い廊下の先に「その人物」の姿を認めたとき、ほんの一瞬、足が止まるかと思われた。――実際には、彼の自尊心が許すところではなかったが。
「あれ、久しぶりじゃない?仲達サン」
 相手も気付いて、声をかけてくる。笑みを含んだ声。そこに不遜さや悪意を感じるのは、けして司馬懿の先入観の所為のみではないだろう。
 郭奕、伯益。かの天才軍師・郭奉孝の遺児で、仮にも「主君の幼馴染」である。――実際には、それだけではとても言い尽くせる関係ではないけれども。無視する訳にもいかず、司馬懿は言葉を返す。この上なく、そっけなく。
「……そうでしたかな」
「そうだよ。二ヶ月ぶりくらい?――そうそう、また勝ったんだって?オメデトウゴザイマス」
 あからさまに揶揄を含んだ言葉を、無言でやり過ごす。この程度で腹を立てていては、とても彼とは付き合えない。
 ――尤も。親しく付き合うつもりなど、毛頭無いが。
 郭奕の言った通り、司馬懿はここ二ヶ月ほど、従軍の為に都を離れていた。官渡の戦いを経、ここ中原は曹操に制された形となったが、反抗勢力が一掃されたわけではない。もっとも、小競り合い程度の規模ではあったが。
 相変わらず、表情に少しの変化も見せない相手に何を思ったのか。郭奕が、笑みを浮かべたまま司馬懿に身を寄せる。
「……何か?」
「何って。凱旋祝い、しなくっちゃねえ」
 不審げな司馬懿に向かってそう言うと。郭奕は突然、その首筋に噛み付いた。かなり思いきり。
「……な……!?」
 あまりに意外な行動に、流石の司馬懿も二の句が告げないでいるところに。
「おや、結構はっきり付いちゃったね、痕」
 あっさり身を離すと。郭奕がむしろ感心したように言い放つ。
「僕からの祝いの品、ってことで。子桓に見られないように気を付けなよ」
 片目を眇めつつ。絶句する司馬懿の肩を軽く叩くと、郭奕は足取りも軽くその場を離れる。さも楽しげな表情を称えながら。
「――せいぜい、ね」
 振り返った郭奕の、妖艶とも言える――それ以上に意地の悪い微笑を、司馬懿は呆然と見送った。



 ――性悪め。
 郭奕が廊下の角を曲がり視界から消える頃には、司馬懿も常通りの冷静さを取り戻していた。それと同時に湧き上がる、強い怒り。相手の不可解な行動と、それに対して不覚を取った自分への。
 郭奕と、曹丕。
 司馬懿が、現れる前。二人がどのような関係にあったか、司馬懿はほぼ完全に理解している。
 結果的に司馬懿は、郭奕から曹丕を奪ったことになるわけで、その意味では彼の嫉妬なり恨み言なりを甘んじて受けるべき立場にいるのかもしれなかった。けれど。
 ――限度というものがあるだろう。
 郭奕の過去の所業を思い出すと、司馬懿は血圧が上がるのを自覚せざるを得ない。
 父親譲りの頭脳と、奇矯な言動。
 それらに裏打ちされた、何かにつけて繰り出される彼の「イヤガラセ」は、司馬懿にも予測不可能であることが少なくなかった。(彼が郭奕を苦手――というか嫌っているというか――とするのは、この辺りに理由があると思われる)
 そしてその上――それこそが問題なのだが――それらの「イヤガラセ」は悉く、確かに効果的なものばかりであった。おそらくそれは郭奕が、曹丕との付き合いの長さから、その性格を隅々まで把握しているからに他ならないだろうが。

 ――そう、今回のように。



「御苦労だったな、仲達」
「――は」
 労いの言葉に一礼すると、司馬懿は面を上げた。
 郭奕と別れた直後。司馬懿は、曹丕の政務室へ赴いていた。
 通されたのは、奥部屋。彼が呼ばれるときの常として、他に人影は無い。目に映るのは、ただ。
 目の前に佇む、優美な姿。
 象牙のような白皙の肌も、絹糸を思わせる髪も。水晶のような瞳も、長い睫毛も。細くしなやかな指も、冷たい微笑を称える端正な唇も。
 全てに、別れた時より一段と増した美しさを認めて、司馬懿は息を呑んだ。
 戦場に赴くこと自体は、彼にとって左程問題ではない。むしろ、文官的な仕事よりも合っていると思うこともある。けれど。
 ――この存在と。
 片時でも離れていられた自分が信じられない。
 それは、この瞬間を何度繰り返しても、喜びと共に変わらず抱く感慨であった。
「――何だ?戦場で頭でも打ったか」
 黙り込んだままの司馬懿を、笑みを含んだ声でからかって。
 優雅としか言い様のない身のこなしで、曹丕が司馬懿に近付く。手を伸ばせば、届く距離まで。
「――いいえ。怪我など、何一つ」
 生真面目に応えて。司馬懿も相手を静かに見つめ返した。至近距離で、視線が絡まる。
「……貴方を…見ていたかっただけです」
 ――そう。出来るなら、片時も離れず。
 そんな答えに短く笑うと。曹丕は軽く瞳を細めて、言う。
「――見るだけ、か?」
 珍しく殊勝だな――弄る主君の瞳にゆれる、微かな炎に煽られたように。
 相手を抱き寄せると、司馬懿はやおら、その唇を奪った。
「…ん…」
 細い腕が背中に回ったのを感じ、司馬懿は相手を執拗に追い詰める。曹丕の唇から漏れる、微かな喘ぎすら飲み込もうとするかのように。
「…ふ…仲達…」
 ずっと焦がれていた感触を、散々に貪った後。誘うような呼び声に促され、司馬懿の唇が恋人の白い肌を辿っていく。滑らかな頬を、形の良い頤を、細い首筋を。

 ――首筋?

 途端。劣情に滾っていた意識が覚醒する。血の気が引くのが分かった。
 ――そういえば。
「――仲達……?」
 熱のこもった愛撫を突然中断した司馬懿の、わずかに蒼ざめたような表情を、曹丕がいぶかしむ。相手に気付かれぬように努力しながら呼吸を整えると、司馬懿は主君から身を離した。
「――いえ…。申し訳ございません、このような場所で」
「………」
 ここは仮にも政務室である。故に、司馬懿の言うことは尤もなのだが。
 居住まいを正し、一礼する司馬懿。その仕草に、常にない僅かなぎこちなさを見て取った曹丕の瞳に、ある種の光が宿る。それに気付く余裕など、今の司馬懿にあろう筈もなかったが。しばしの沈黙の後、曹丕が口の端を上げた。
「……本当に、殊勝になったものだ。たまには戦場に出す方がいいかもしれんな」
 皮肉めいた笑みをひらめかせながら言い放つと、曹丕は鮮やかに身を翻す。一礼したままの司馬懿を残し、扉の方へ向かう。そうして。
 ――今夜。
 振り返ることなく。
 たった一言を残して、曹丕は扉の向こうに消えた。



 ――危なかった。
 脱力したように、司馬懿は溜息をつく。
 目前の鏡に映る己の姿の、左首筋の辺り。郭奕に付けられた噛み痕が、はっきりと――確かに感心するほどに明瞭に――残っていた。
 ――子桓さまに見られでもしたら。
 どうなっていたか。誤解されることは必至である。そうなれば、彼に弁解の機会は与えられないだろう――少なくとも10日ほどは。機嫌を損ねた主君の容赦のない冷淡さは、司馬懿の良く知るところであったから。危うく大惨事を招きかねなかった自分の迂闊さと、すべての元凶である人物を、彼は心底呪った。
 恋人の唇や素肌の感触。熱い吐息。それらの余韻がまだ、身体のあちこちに残っている。彼の人がこんな時間、あんな場所で身を委ねてくるなど、滅多にないことであるというのに。(無理矢理にならいざ知らず)
 ――いつか殺す。
 胸に沸き起こる明確な殺意を再認識した司馬懿の瞳は、すっかり据わっている。けれど。
 さしあたって問題なのは今夜である。どう楽観的に見ても、この痕が消えるとは期待できない。遭ってしまえば、手を触れずにいられる訳がないと、司馬懿は自信を持って断言できる。では、辞退するか。
 自らの考えに、司馬懿は軽く首を振った。折角機嫌がいい――と思われる――主君の気分を害したくはないし、司馬懿にしてもそんな選択は願い下げだった。何せ二ヶ月ぶりの逢瀬なのである。それを、よりによってあの男の所為で妨げられるなど、我慢ならない。
 そんな司馬懿の自尊心と、あるいは対抗心が、彼をして真実を打ち明けることを拒ませていた。郭奕に不覚を取り、まんまとしてやられたなど、どうして彼の人に言えるだろうか。
 ――となると。
 残る道はただ一つ。
 司馬懿は思わず、らしくもなく天を仰いだ。



「――来たな」
 夜陰に紛れて、曹丕の自室を訪れた司馬懿を、いささか人の悪い微笑が迎える。
 僅かな灯りだけが頼りの薄闇を、酒と湯の香が仄かに満たしている。解かれた曹丕の長い髪は、まだ僅かに水気を含んでいた。
「…何か?」
 収まらない忍び笑いの理由を問う司馬懿に、曹丕が応える。
「――いや?今夜は来ないかもしれないと思っていたから」
「何故――」
 一瞬。司馬懿の動悸が僅かに早まる。彼は無意識のうちに、衣服の上から首筋に手をやっていた。そこには、あたかも傷に対してするように白い巾があててある。
 それに構わず、曹丕は手にしていた杯を卓の上に置く。同時に送られた視線に促されるように、司馬懿はゆっくりと歩を進めた。
「この二ヶ月で――抱き方を忘れでもしたかと」
 至近距離から見上げてくる瞳と、誘うような戯言に、軽い眩暈を覚えながら。司馬懿は無駄のない動作で身を屈め、馨しい髪の一筋を手に取った。そのまま恭しく口元へ運ぶ。
 ――忘れる得る筈もない。この存在を。
「貴方は…お忘れになってしまいましたか?」
「…そうかもな」
 くす、と曹丕が笑う。そうして。

「――思い出させて、みるか…?」

 挑発的な台詞と、冷艶な笑みに。
 狂おしい衝動を開放し、司馬懿は主君を引き寄せる。
「……何だ。忘れた訳ではなさそうだな」
「――もう、お黙りなさい」
 恋人の激しい熱情に身を委ねながら、未だ皮肉めいた揶揄の言葉を紡ぎ出す唇を。
 司馬懿はゆっくりと塞いだ。



「――お加減は如何ですか、子桓さま?」
 先程まで。自らの腕の中で意識を失っていた恋人の耳元で、司馬懿は優しく尋ねた。
「……相変わらず…手加減を知らん奴だな……」
「申し訳ありません」
 まだ微熱を残す、曹丕の朦朧とした瞳に、司馬懿は軽く目を細めた。
 ――これでも、かなり抑えたつもりだったのだが。
 どうやら自分で思っていた以上に、かつえていたらしい。
 司馬懿は苦笑せざるを得ない。そんな自分を、否定するつもりはないが。
 白い額に貼り付いた細い前髪を、長い指で掻き上げ。瞼にそっと口付けながら、司馬懿が囁く。
「朝までこうしていますから。ごゆっくり、お寝み下さい」
「…ん…」
 寝返りを一つうつと。曹丕は、まるで猫がするように、司馬懿の胸に擦り寄ってくる。牀を共にすると決まって――機嫌の良い時に限って、だが――彼が見せる仕草。上質の毛並みを思わせる髪や、すべやかな素肌の感触が、惜し気もなく司馬懿に与えられる。その背を柔らかく包み込みながら、司馬懿は至福の時を噛み締めていた。――その瞬間までは。
「……首。どうかしたのか?」
 一瞬。司馬懿は凍りついた。
 気付けば、曹丕が顔のごく間近にある白巾に見入っている。すっかり油断していた。かなり浮かれていたのだろう。いくら後悔しても後の祭りである。
「――それ、は」
「怪我しなかったって、言ってなかったか?」
 すっかり目が覚めたのか、体を起こして。
 昼間の会話を思い出しつつ、曹丕が首をかしげる。
 しまった。司馬懿は内心舌打ちする。
「怪我というか、その。大した事ではなくて」
「掠り傷か?大袈裟だな」
 何とか言い逃れる方法を、司馬懿が必死に模索しているうちに。
 曹丕の細い指が、情け容赦なく伸ばされた。そうして。

 ぺり。

「……………」
「……………」

 痛い程の沈黙。
 曹丕の視線を首筋に感じながら、司馬懿はいっそ泣きたい気持ちで天を仰いだ。こんな風に途方にくれるなど、彼の人生の中でそう何度もあることではないだろう。
 ――どうする。
 事ここに至っては、どうしようもないと判っていたが。それでも。
 目の前で俯く恋人に、誠意を伝えなければならない。
 ――例え、納得してもらえなくても。
 悲痛な覚悟とともに、意を決し。思いつめた表情で口を開く。――その瞬間。
「――子桓さ、ま……っ!?」
 黙りこんでいた曹丕が、すう、と身を寄せてきたかと思うと。そのまま、首筋に噛み付いてきた。丁度、郭奕がしたのと反対側に。
「な……」
 突然のことに混乱する司馬懿の耳に、忍び笑いが聞こえた。誰あろう曹丕が、堪えきれないという風情で肩を震わせている。
「――俺からの凱旋祝いだ。光栄だろう?」
「子桓さま!?」
 からかうような曹丕の口調に、司馬懿は思わず叫ぶ。そんな相手を見上げ、首筋を指差しながら、曹丕が人の悪い笑みを浮かべた。
「伯益に、聞いた。面白いことになるからって」
「――な」
「だから、今夜は――痕が消えるまでは来ないだろうと思ったんだが。……伯益の言う通りだったな」
 そこで。含み笑いが、大笑になる。彼にしてみれば珍しいことであった。
「『来ない訳ないじゃない、どんなことしたって』――って、さ」
「――――………」
 楽しげな主君を呆然と見やりつつ。司馬懿は絶句せざるを得ない。
 ――最初から。
 あの男の狙いはこれだったのだ。あの後。彼はすぐ、曹丕の元へ向かったのに違いないだろう。――さも、楽しげに。
 ――見事、成功したという訳だ。
 どこからともなく。郭奕の笑い声が聞こえたような気がして、司馬懿は溜息をついた。
 敗北感と屈辱は、どうしようもない。けれど。
「仲達?」
 ひときしり笑った後。
「そう気落ちするな。俺は楽しかったぞ?」
 黙り込む司馬懿に近付くと、曹丕が宥めるように語り掛ける。それはまだ、多分に笑みを残した口調であったけれど。
「蒼くなるお前とか。滅多に見られないものが見れ――……」
 その瞬間。突然手首をつかまれ、曹丕は寝台へ押し倒された。

 ――けれど。
 この方は、私の腕の中にある。

「――ちょ…仲、ん…っ…!」
 その声は、司馬懿の唇で封じられる。何もかも奪い去るような荒く深い口付けに、曹丕の意識は眩んだ。
「……寝ろって…言ったろ…っ!?」
「――気が、変わりました。心配事もなくなったことですし」
 窒息しそうな程長い口付けの合間をぬっての、抗議の声。それを抑揚のない口調であっさりかわして、司馬懿はさらにとんでもない台詞を吐く。
「今度は、手加減なしで」
「何……あ…っ!?」
 自分を知り尽くした指に、敏感な部分を辿られ。曹丕は思わず声を上げた。
「や、仲達…っ」
 逃れようともがく曹丕だが。それを器用に組み敷いた司馬懿に、その身体の鉱脈をひとつひとつ暴かれていく。
「あ、やぁ…っ…!」
「朝まで、眠らせません。――散々楽しんだ代金だとでも思うんですね」
「馬鹿!はな……あ、ん…っ!」
 思わず、首筋の傷痕に爪を立てる相手に。微かに笑って、司馬懿が囁く。
「また噛み付きますか?望むところですよ」
 不敵な笑み。曹丕は、相手がすっかりいつもの調子を取り戻したことを悟った。
「や……お前…しつ、こい…っ!」
「それだけが取柄なもので」
 非難の声にも、少しも動じず。
 しれっと応える司馬懿の涼しげな表情に。

「……本当に……少しは、忘れて来い…っ!!」

 苦し紛れに。
 そう言い放った直後、曹丕の意識は途切れた。

タイトルは是非「ぷれぜんと」と読んで欲しい、そんなコメディ路線になりました。珍しい(笑)
とりあえず天敵・郭奕君には今後も色々しでかして欲しいものです。