――何故。

 灯り一つ無い部屋。唯一闇を照らし得る細い月は、黒い雲に隠されている。
 無限に続くかと思われた沈黙を破った男の声に、女は少し微笑ったようだった。
「そのようなこと。女子に尋ねるものではありませんわ」
「……そういうものでしょうか」
 そういうものです、と。応じる女の細い裸体が、暗闇にほの白く浮かび上がる。成程そうかもしれない。身体に残る気だるい余韻を感じながら、男は思う。
 或いは、こんな間柄なら特に。月の無い晩を選び、人目を偲んで訪れる男と、夫を持つ身でありながら、それを受け入れる女。その上。
「それに」
 男の沈黙をどう受け取ったか、女がくすりと笑って続ける。
「それにそのようなこと、本当はどうでもよろしいのでしょう、子建さま?」

 ――その上。
 相手を義姉あねと呼ばねばならない関係なら、尚更。



 ――確かに、どうでもよいことだった。
 滅亡した家の嫁でありながら、その美貌ゆえに、夫の仇ともいうべき相手の妻となった女性ひと。そんな絶世の美女と夜を共有しながら、曹植はなんら満たされてはいなかった。あるのはただ、密かな喜び。――暗く、熱い。
 ――もうすぐ。
 黒い熱情に身を委ねながら、曹植は彼の人を想う。唯一無二の、美しい人を。
 ――もうすぐです、兄上。
 明晰な頭脳と、冷静沈着な立居振舞い。それらを具現したかのような、冷艶な美貌。憧れと敬愛の中に潜む、暗い欲望を自覚したのは、そう遠い日のことではない。
 手に入れたいと。ほんの、一時だけでも。その為なら。
 ――その為なら、どんな手段も厭わない。
 そう切望する自分への嫌悪など、もう既に感じなくなっていた。
 どんなことでもする。望みを叶える為に。
 兄を追い詰める為に、嫂を利用することも。
 ――曹家の三男は、実兄の正妃に横恋慕している――
 それは、三晩と空けず、彼女の室の前に佇む曹植を目撃した人々の間で、公然の秘密となりつつあった。噂が兄の耳に届くのも時間の問題だろう。
 曹植が欲するのはそのような世間の風評であり、事実関係などどうでもよかった。だから、彼女と言葉を交わす必要すらなかったし、目前の扉が開かれるなどとは思ってもいなかったのだ。そう――今夜までは。
 ――何故。
 曹植は、先程の問いを心中で繰り返した。
 事ここに至っては、最早曹植一人の問題ではない。彼を受け入れたことが知れれば、ただでは済まないのは彼女の方である。ましてこのようなこと、いつまでも隠し通すことは難しいのだから。
 曹操ちちをして息子あにを妬ませ得る程であったと言われる、彼女のその美貌を曹植は思い浮かべる。何度も逢った訳ではないが、ただ美しいだけでなく、その言動には知性や気丈さが感じられた。おそらくその辺りが、兄の気に召したところであるのだろう。
 だから尚更、今夜の彼女の行動には不審を感じざるを得なかった。一時の気の迷いに流される女性には見えない。それでは義弟おとうとの「情熱」に絆されたかといえば、とてもそうは思えなかった。それでは何故。
 そこまで考えて、曹植は軽く口の端を持ち上げた。
 ――彼女の思惑など、知らない。
 理解る必要など無いのだ。無理に理解ろうとする気も無かった。あの兄に望まれながら、他の男に身を委ねるなど、曹植には信じらないことであった。曹植にとってこの事態は、確かにより望ましいものでありはしたけれども。
 遠くない将来。この関係は、兄の知るところとなるだろう。
 その時。彼の人はどんな表情をするだろうか。
 愚かな弟を憎むか、哀れむか。それとも。
 自嘲的な笑みが音もなくこぼれ、静かに闇を震わせた。
 ――結局。この義姉すらも妬ましかったのだ、私は。
 だから、関係ない。例え彼女がどうなろうとも。

 欲しいのは、唯一人だけだから。



 ――可哀相なひと。
 先程まで自分を抱いていた男の気配を感じながら、甄氏は心に呟いた。
 十も年下の、義弟おとうと。文人らしく繊細で青白い容貌の男の考えていることが、彼女には手に取るように理解できた。本当は、誰を欲しているのかも。それは、年齢の差は勿論、甄氏が歩んできた数奇な運命の所為。それに何より。
 ――わたしたちは、同類なのだから。
 十年以上も前の、あの日。
 鄴城陥落と同時に、甄氏は新たな夫を迎えることとなった。
 最初の夫に特別な想いがある訳ではなかった。だから、彼が自分を置いて逃げ、その結果自分が戦利品として扱われることになっても、嘆いたりはしなかった。それが乱世の常だとわかっていたし、取り乱すようなことはしたくなかったから。けれど。
 あの時。
 目前に現れたひときわ若い武将を見て、甄氏はしばし息をするのも忘れた。
 氷細工を思わせる、白皙の美貌。華奢な痩身にそぐわない甲冑を身に着けながら、いっそ優雅とでも言うべき身のこなし。何よりも惹きつけられたのは、その冷たく静かな眼差しだった。戦場の混乱や、勝利に酔う兵たちを他所に、彼一人だけは別世界にいるようだった。何を、見つめているのだろうか――そんな事を、ふと考えた。
 それが、敵の総大将・曹操の長子、曹丕であると知ったときの驚きは忘れられない。ましてその後、彼の妻にと望まれたときの驚きはいかばかりであった事か。
 ――思えば。
 あの時からずっと、彼の人に惹かれ続けていたのだ。
 けれど、それを自覚すると同時に、彼女は気付かざるを得なかった。
 ――あの方の瞳は、妾を見ていない。
 彼が自分を疎かにしていると思っている訳ではない。それでも。
 夫が必要としたのは、「袁家の嫁」。それを娶ることによる政治的効果。そしておそらく何よりも、父親への対抗意識の所為。――彼自身が自覚しているかはわからないけれど。
 ――「妾自身」に興味があるのではない。
 それに気付いた時。どうすればよかったのだろう。

 怒れば、詰ればよかったのか。

 愛していると――愛して欲しいのだと、泣いて縋れば。

 ――出来る筈もない。
 甄氏は、苦笑する。
 小賢しい女。自分の自尊心の高さは理解している。その実この上なく臆病なことも。
 五歳も年下の夫に、弱みを見せても。気持ちをぶつけてみても、何も還ってこないかもしれない。傷付くかもしれない。怖い。
それならせめて今のままで。形式だけでもいい、繋がっていられるなら。そうして、生きていくのだと思った。多分一生。けれど。
 ――同じ瞳を、しているの。
 自分とこの、義弟は。
 同じひとを。かけがえのない存在を欲して。どうしようもなく。なのに。
 その望みが、適えられないものであることを知るが故の焦燥と――絶望。
 妾が忘れたかった――忘れたつもりだった、情熱きもち
 それらを感じさせる瞳が、痛かったから。堪らず、この手を伸ばした。――或いはそれは、「自分」に対する憐れみだったのかもしれない。
 ――妾は、彼の望みの成就を願っているのか。
 自分でもわからなかった。この先どうなるのかさえ。
 ただ確かなのは。
 近い将来、彼の人に罰せられるのだということ。
 その時。夫はやっと、「妾」を見てくれるのだろうか。
 願わくば、妾を罰するその指が、いつまでも妾を忘れないように。
 どんな形でもいい。貴方の内部なかに残れるのならば。

 貴方を傷付けるかもしれないとわかっていても。
 それが、妾の望み。

 ――可哀相な、ひと。
 自嘲めいた微笑を美しい唇に浮かべ、甄氏は呟く。
 誰が?
 義弟が?
 妾自身が?


 ――それとも。


 一瞬、雲間が切れて。
 彼らの笑みを。
 その望みを。
 細く漏れる月の光が、静かに照らし出していた。

植丕シリーズ「愛染賦」系列の話、暗くてすみません。植→丕←甄氏な感じ。
何と云うか、似た者同士とか共犯者とかそんな関係性の二人です。