愛 染 賦

 荘厳な扉が、音を立てて開いてゆく。

 ――この扉の向こうには、あの人がいる。
 私はゆっくりと顔を上げた。


 時が、来たのだ。


∽∽∽


「――主公は、何を考えておられるのか――!」

 ――また、始まった――
 華やかな宴席。美しい楽の音や佳人の舞、惜しげもなくふるまわれる美酒の芳香。
 それらを存分に享受する人々を楽しげに見やっていた曹植は、背後に聞こえる侍臣達の低い呟きに苦笑を漏らした。
 建安16年、正月。
 この年曹操は、長子である曹丕を、五官中郎将および丞相副に任命した。
 これは、この国の事実上の最高権力者である曹操が、曹丕を自らの後継者に据える構えをかいま見せたともとれ、後継者争いにおける、対抗馬の筆頭と目されている曹植にとっては、看過できない出来事であった。
 いや、曹植を担ぎ上げようとする者達にとっては――と、言い換えるべきだろう。
 曹植自身には、全くと言っていいほどその気はなく、ここ許都における曹丕の館で連日にわたって催されている宴も、ただ純粋に楽しんでいたのだが。
 もっともその気がないのは、曹丕にしても同様らしい。酒に酔い、勝ち誇ったように笑い声をあげる取り巻き達を残して、当の主役はいつの間にか姿を消していた。
 ――このような席は、あまりお好きでないからな、兄上は――
 未だ不満を漏らし続ける侍臣の声に興をそがれ、曹植は立ち上がる。
「――子建さま、どちらへ?」
 見とがめた側近、楊修が声をかけてくる。
「少し出てくる。構うな」
 そう言い残して、曹植は座を離れた。



「――やれやれ」
 宴の喧噪を抜け出し、広大な庭園をあてもなく歩きながら、曹植は溜息をついた。
 最近本当に、周りの者がうるさくてかなわない。――このままでいいのか、と。
 ――父上のお決めになったことだ。とやかく言っても仕方がないだろうに――
 しかも、当の曹植自身に、後継者たらんとする意志がないのである。
 覇王の、全てを引き継ぐ。そうなれば手に入らない物はないと、彼らは言う。しかしそうまでして欲しい物がある訳もなく、何より、覇道を受け継ぐなど、あまりにも自分にらしくないと曹植は思う。不自由などない。何故好んで、事を荒立てる必要があろうか。
 侍臣達にも、事あるごとにそう言ってきた筈だった。だが、彼らはそれを信じない。
 ――いや、信じたくないのか。
 曹植は、皮肉混じりに苦笑する。今更兄の元へ走ったとて、冷遇されるのは目に見えている。宴でただ浮かれているような輩だけならともかく、彼にはもうとっくに有能な支持者がいるのだ。父の信頼も厚い陳羣や――それに。
 今日の宴の間も、曹丕の傍らに影のごとく控えていた男を、曹植は思い出す。司馬懿――仲達。感情の現れない表情と、静かで深い瞳を持つ。
 兄と敵対する者を、彼が許す筈がない――全く読めない男だが、曹植は、何故かそれだけは確信していた。それは、詩人特有の感受性の鋭さから来る、直感だろうか。
 ――確かに、今になってもはっきりと後継者を定めない父の態度を、不審に思わないではない。
 兄弟同士の争いにより袁家の滅亡が早まったことは、まだ記憶に新しい。たとえ本人同士にその気がなかったとしても、こういうことは周りの思惑によってどうとでも転び得る。それ故曹操のこの、らしくないとも言える決断の遅さは、周囲の疑惑を生むと共に深刻な波紋を投げかけていた。
 それでも曹植は、父が自分を溺愛するが故に思い迷っている――などという世間の噂を鵜呑みにするつもりはなかった。自分が特別に気に入られているとは、彼には思えなかった。何より、らしくない行動を見せるからこそ、覇者は覇者たり得るのではないか。現にいつだって、父は人々が考えてもいなかったことをしてのけ、その結果、現在の地位を得た。自分のような凡人には、彼が考えていることが理解できないだけなのだろう。――多分、今回も。
 それを察することが出来るのは、ほんの少数の、特別な人間だけなのだ。そしておそらく――兄・曹丕にはそれが可能なのだと、曹植は思う。
 父のある部分――この乱世において最も必要となるであろう部分を、兄は確かに受け継いでいる。おそらくあの二人は、この上ない共犯者となり得るだろう。ただそれは、そのまま親愛にはつながらない。誰が見ても冷たく感じる、父の兄への態度の理由は、相手の思考を察せられるが故の自信と――おそらくは、近親憎悪。
 とにかく、兄が後継に据えられるであろう事については、曹植は疑っていなかった。たとえ、正式な決定までに時間がかかろうとも。曹植の方が、兄であったとしても。
 ――兄、か…――
 5つ年上の兄の姿を、曹植は思い浮かべた。
 ――第一、あの兄上と張り合うつもりなど、毛頭ないのに――
 流麗で論理的な文章に、感じられる知性。華奢な痩身ながら、武芸にも秀でている。意識して出来るものではない、優雅な身のこなし。――それから。
 鮮やかな衣装を身にまとった曹丕が儀式に臨んだとき、常日頃彼を敵視している曹植の侍臣達ですら、一様に息を呑んでいた。白磁の肌に、端正な目鼻立ち。氷細工のようなその表情は、冷たく、近寄り難いが、この上なく美しい。冷艶、というのか。
 誰に対しても態度を崩さない。現に、曹丕が自失するところなど、曹植は見たことがなかった。誰にも屈することはないだろう、誇り高い兄。――不可侵の、美しさ。
 ――私の、誇りだ。
 無理なく自然に、そう思える。
 それは彼が、幼い頃から感じてきたことだったから。
 とめどもなく思索しながら歩くうちに、いつの間にか邸のかなり奥の方まで来てしまっていた事に気付いて、曹植は苦笑した。見れば、辺りには無数の庭木が植えられ、木立はちょっとした林のようになっている。
 ――そろそろ戻ろうか――
 もう兄も戻ってきているかもしれない、ときびすを返そうとしたその時。
 曹植は、人の声を聴いたような気がした。
「……?」
 ここまで立ち入ることが出来るのは、ごく限られた人間だけのはずだが――不審さと好奇心から、曹植はそちらへ歩を進める。すぐに、視界が開けた。
 そこに。
 曹植は、兄とその腹心の姿を認めた。
 早咲きの紅梅の木のもと、曹丕と司馬懿が佇んでいる。何を話しているのか、聞き取るのが難しい程離れているためか、二人が曹植に気付いた様子はないようだった。
 ――こんなところで、何を。
 宴を抜け出してまで――いぶかしむ曹植の思考は、そこで停止した。
 つ、と曹丕に身を寄せた司馬懿が、その頬に触れたかと思うと、そのまま兄に口づけたのだ。

――!」

 目にした光景が信じられずに、曹植は絶句した。一介の臣下の無礼な行いに対して、当然振り上げられるべき曹丕の腕が、ごく自然に司馬懿の背に回される。それを待っていたかのように、行為は一層熱いものとなった。
 曹植は身じろぎもせず、立ちつくす。目が、そらせない。
「…は…あっ…」
 甘い吐息。消え入りそうな程に微かな声であるのに、妙にはっきりと曹植の耳に届く。
 ――誰の声だ、これは。
 荒い息づかい。曹丕の白い頬が上気する。深い口づけに翻弄されるがままにその瞳を閉じ、整った眉をひそめて。その容貌を、舞い散る紅い梅花が、彩る。
 ――こんな、表情。
「…ん…仲、達…」
 立っていることが苦しいのか、曹丕は司馬懿に縋り付くように寄りかかっている。その様子に、司馬懿は少し表情を和らげた。
「――はい」
 言って、主君を鄭重に、しかし軽々と抱き上げると、そのまま司馬懿は館のさらに奥の方へ向かう。造りからして、あれは多分――寝室。
 そうして。
 残された曹植はどうすることも出来ず、ただ呆然と、その後ろ姿を見送った。
「――兄…上…」

 強い風が、紅華を無惨に散らしていた。


∽∽∽


「失礼します」
 顔を上げた、視線の先。
 見るものに冷気を感じさせずにはおれない、美貌の兄がそこにいる。その傍らには、司馬懿。普段無表情な男の眉が、ほんの少し歪んだのは――私の身体から漂っているであろう、濃い酒気のせいだろうか。――少しばかり小気味よい。
 私は、微かに笑う。
 そうして。兄を、真っ直ぐに見つめて、言う。

「立太子のお祝いを申し上げに参上しました――兄上」


∽∽∽


 ――夢だったのではないか。

 どうやって戻ったのか、自分でも思い出せない宴席で、曹植はただ盃を重ねていた。
 飲んでも飲んでも、一向に酔えない。なのに、飲む前からすでに、頭は麻痺していた。

 ――私は、知らない。あんな兄上は。
 ――兄が、あんな風に。
 あんなに、乱れて。

 やはり夢だと、思わざるを得ない。――想像すら、出来なかったことだ。
 何杯めかの盃をあおったとき、宴席の中央が湧いた。曹植はビクリとして、そちらに目を向ける。
 主賓である曹丕が戻ってきたのだ。常通りの、冷笑にも似た微笑をその美貌にたたえて。変わらぬ、兄の姿。そしてその背後には――司馬懿。影のようにつき従う男。いつもと、変わらぬ。けれど。
 曹植は、自分の血液が沸騰するのを感じた。手にした盃が、軋んだ音を立てる。

 ――夢。

 夢でなどあるものか。

 確かに聴いたじゃないか、私は。兄の。――兄の、甘い。


「――どうか、なさいましたか?」
 くいいるように中央を見つめる、しかし実は何も見ていない曹植の、異様な視線に気付いたのか、楊修が気遣わしげに問いかける。答える曹植の声は、いつになく低く闇く――熱い。
「――何でも手に入る――そう言ったな、お前達は」
「子建さま…?」
 ――何を、考えている。自分は。

 ――何を――

「いいだろう。――お前達の、好きにしろ」
 ――踊らされてやる――静かにそう言い放ち、曹植は杯を干す。
 その脳裏には、司馬懿に縋っていた曹丕の、細い腕の白さが焼き付いていた。


∽∽∽


「――酔っているようだな」
 何か言いたげな様子の司馬懿を下がらせて、兄は私に席をすすめた。
「そうでしょうか?――自分ではよくわかりませんが」
 二人きり。重い扉は、閉じられている。
「そういうものかな」
「ええ――兄上にも、理解できないことがおありですか」
 揶揄と皮肉を含んだ私の声を、兄が聞き咎める。
「……何が言いたい?」
 一層冷たさを増した口調に、答える。唇を歪めて笑って。
「――兄上は、何でもご存じですからね。知略も策謀も、思いのままだ。――例えば」
 私はそこで言葉を切った。兄を真っ直ぐ見据えて――続ける。
「……例えば、何も知らない愚弟を騙し続けるなどは――ね」
「――――」
 流石に虚をつかれたらしく、兄が言葉をなくす。
「後継には、貴方を。最初から――6年前の丞相副就任の以前から、決まっていたことだ。父上と、貴方との間で。……そうでしょう?」
 笑いながら言う。歪んだ、笑顔。そうして、私は立ち上がる。
「私にも、腕のいい間諜がいましてね。……不平分子を一掃する。骨肉の争いまで利用して。――成程。私には、出来ないことです」
「――植」
「――楽しかったですか?私を、弄ぶのは」
 私のただならぬ雰囲気に何かを感じ取ったのか、兄もまた席を立った。涼やかな瞳が、私を射る。しかしその視線には、常ほどの強さは感じられなくて。
「――非道い人だ、貴方は」
 私は、ゆっくりと彼に近付いた。
 そのまま、壁際へ追いつめる。
「……どうするつもりだ」
 こんな時でも冷静な問いに、笑うだけで答えず、見上げてくる兄の衣服に手を掛ける。
「――よせ、植」
 抗う白い手首を捉え、固定する。私の方が、力は強いようだ。
「植…!」
「…冷たいな、兄上」
 耳元で、囁く。
「貴方は、全てを手に入れてきた。美しい奥方も、有能な部下も、父上の信頼も――権力も。なのに、何も持たないこの愚弟の、我が儘に付き合ってさえいただけないのですか?」
「―――」
 兄が、沈黙する。ほんの暫く。そうして、形のよい唇が、開かれる。
「――それ程に…私が憎いか?」
 私は答えない。兄の長い睫毛が伏せられ、白い頬に濃い影を落とすのを、ただ見つめていた。
「……好きに、するがいい」
 掴んだ腕から、力が抜けるのを感じる。怯えの色は、見えない。
 私は軽く微笑むと、細い首筋に顔を埋めた。兄が、少し身じろぎする。

 躊躇いはない。
 待っていたのだから、私は。


 この時を、ずっと。


∽∽∽



 泣いている。

 齢はたったの10歳。にも関わらず、葬儀中には少しの乱れも見せなかった、同母兄。
 その兄が、一人。
 誰もいない部屋で、立ち尽くして。
 声を上げることなく、怜悧な容貌を歪ませることすらもなく。
 ただ涙だけが、白皙の頬を伝っていく。
 長兄の、突然の死。
 幼い自分は、訳が分からないまま、ただひたすらに悲しかった。けれど。
 その瞬間、全てを忘れた。
 ――綺麗だ、と思った。
 これほど綺麗なものが、この世に、と。

 それから。

 わきあがるのは、別の感情。

 これは何。


 これは。




∽∽∽


 ――幼い頃の、記憶。

 今でも鮮明に思い出せる。もう20年も経つだろうか。
 長く理解できなかった、感情の名。今では正確に把握できる。
 嫉妬。
 自分の知らない、兄の感情を引き出せる相手に、私は嫉妬した。
 若くしてこの世を去った――確かに慕っていた、亡き長兄にさえ。

 思えばあの時から、私は欲していたのだ。
 あの、美しい兄を。
 しかし同時に、私は悟っていた。決して、彼を手に入れることは出来ないことを。
 誰のものにもならない、兄。だから。
 だから私は、知らず、自分の想いを封印した。
 なのに、兄上。貴方が。

 貴方がもう、
 他の誰かのものだなんて。

 それを知った、あの日。
 私の中で、何かが壊れた。
 そうして私は、兄と争うことを決めたのだ。
 勝とうなどとは考えもしなかった。
 最初から勝負は見えていたし、万が一後継者となっても――たとえ至高の位についたとしても――誇り高い兄を自由にすることなど不可能だろうから。
 だから私は、ただ待った。
 兄に、負ける日を。
 今日の、この時を。
 そうして私は、演じて見せた。
 すでに、いくら飲んでも酔えなくなった酒を浴びて。
 偶然、間諜が得てきた情報まで利用して。――そんな事実、知ったところで今更どうということもなかったのに。

 父と兄に傷つけられた、弟を。

 兄の全てを激しく憎む、哀れで愚かな弟を。

 自嘲が、こみ上げる。
 ――違うんです、兄上。
 憎いのは、貴方じゃない。
 貴方を手に入れた、あの男でもない。
 私が憎いのは。本当に、憎いのは。

 この期に及んで、本心を打ち明けられない、自分。
 貴方を汚すのに、大義名分を作り上げざるを得なかった、臆病な。
 臆病で、卑怯な。
 ――貴方の、身体も精神こころも傷付けた。

 兄上。
 それでも。
 それでもどうしても。

 どんな形でもいい。
 ほんの、一時だけでも。

 私は。

 貴方を、どうしても手に入れたかった――。


∽∽∽


「――道中、気を付けられよ」
 暗い廊下。曹植は、前方に広がる闇の中に人影を認めた。
 司馬懿。静かで抑揚のない声だが、その瞳には底知れぬ光が宿っている。
「月夜の晩ばかりでは、ありませんから」
「――月の満ち欠け如きに、左右されるようには見えないけれどね、君は」
 軽くかわして、曹植は歩を進めた。
 すれ違いざま、司馬懿が問いかける。
「――それで満足か、御辺は」
 低い声が、重く静かに響く。
 ――満足か、だと?
 曹植が、足を止める。
「……放っておいてくれないか」
 ――決まっている。私は。
 ずっと待ち続けた。この時を。
 だから。
 振り向いて、笑ってみせる。――笑う、つもりだった。



「――折角、いい気分なのだから」



 自分が今、どんな表情をしているのか。

 ――知りたくもないと、曹植は思った。

懿丕前提である以上、植丕は本当に切ないことにしかならない…すみません。
もっとこう、仲良かった頃の話とかも書いてあげたいんですが。
章ごとに現在と過去がいったりきたり、現在パートは植一人称。読み辛くてゴメンナサイ
とりあえずつくづく弟×兄クラスタだよねー私。