恋人はつれなかった。いつもの事ながら。
夜も更けつつある刻限。勤務時刻もとっくに終わり、人気なく静まり返った政務室で一人、机に向かいながら、司馬懿は思わず溜息を吐く。
思い出すのは、昼間の事。
本来なら今夜、彼は曹丕の閨を訪れることになっていた。こちらが誘っても、三度に一度は拒絶されるという厳しい状況の中、運良く勝ち取った至福の時――である筈、だったのだが。
約束をとりつけた直後、至急整えなければならない書類が、司馬懿の元へ送られてきたのだ。それは少々やっかいで、司馬懿の実務能力をもってしても、残った出仕時間内ではとても処理しきれない――場合によっては夜通し取り組む必要があるような類の代物だった。期限は、明朝。
断腸の思いで事情を告げに行った司馬懿に対しての、主君の言葉は、たった一言。
『――なら、いい』
形の良い唇から発せられる言葉は、音楽的なまでに流麗で美しかったが、それだけに冷淡でそっけなく、司馬懿を落胆させる。
もしも。恋人の表情が僅かに翳りでもしていたなら、司馬懿はどんな手段を使ってでも彼の元へ駆け参じただろう。ほんの一目、逢うだけでもいい。けれど、その氷細工の彫刻を思わせる面は、少しも変わらず完璧な美しさを湛えていて。
「……こんなことなら、仕事など放って置けばよかった」
心労の所為か、結局全くはかどっていない書類を忌々しげに眺めながら、司馬懿は吐き捨てるように呟く。
自分の感情を表に出したがる相手ではない。機嫌を損ねなかっただけでも、良しとすべきではないか。――そう、思いはするけれども。
司馬懿の瞳に、らしくもなく頼りなげな光が揺れる。苦しげなそれは、焦燥にも似て。
いつもいつも、情けない位に欲しがって。彼の人の馨りを、視線を。熱を吐息を。間近に感じる度に、目の眩むような浮遊感に襲われるのに。
――思い知らされる。
いつでも。
溺れているのは、自分だけ。
「――自覚は、している筈なんだが」
自嘲めいた苦笑を、薄い唇にひらめかせて。
この夜何度目かの溜息を吐くと、司馬懿はかるく頭を振った。気を取り直して筆をとろうとした、その時。
「何を、自覚しているんだ?」
夜の涼気が、より涼やかで玲瓏な声を運んで来る。信じられぬと云う面持ちで振り返る司馬懿の瞳に、一人戸口に佇む青年の優美な姿が映し出された。唯一無二の、主君の姿が。
「…子、桓さま…?」
何故、と。呆然とした態で相手が問うのに薄く微笑って、曹丕がゆっくりと近付いていく。その足取りは機能的でありながら、この上なく典雅であった。
「こんな夜更けまで、一人で政務に励む忠臣を労いにな」
淀みなく言い放って、曹丕は手付かずのまま、机に上に山積みとなった書類に目を遣る。
「――尤も、予想以上に難航しているようだが」
見透かされている。思わず、僅かに赤面した司馬懿に、端正な唇の端がくすりと持ち上がる。その微笑みは、皮肉めいた冷たい棘を含んでいたが、それ以上に美しく、挑戦的で。魅惑的なその眼差しに、司馬懿は惹き込まれずにいられない。
――敵う筈がないのだ、最初から。
この、かけがえのない存在には。
「…子桓さま」
ささやくように呼びかけると、司馬懿はそっと相手を引き寄せた。心に浮かぶのは、苦笑交じりの諦めと――静かに満ちる喜び。これ程までに、求めずにいられない存在を手に入れられたこと。ほんの少しでもいい。その存在に、必要とされること。
「……仕事は?」
「そんなもの。――お怒りでなければ、ですが」
意地の悪い皮肉に、生真面目に応える相手に、曹丕は喉の奥で笑った。細く白い腕が、ゆるやかに司馬懿の首に回される。至近距離で、視線が絡まる。
「――では、責任を取ってもらおうか。約束を反古にしかねなかった、不届き者に」
「御意……」
からかうような――或いは誘うような、瞳。
――降伏するしかない。何時だって。
眩暈にも似た幸福感を噛み締めながら。愛しい相手に、司馬懿は恭しく、熱く口付けた。
その夜。
仮眠室の牀の上、寝息を立てる恋人の隣で。驚異的な速さで、司馬懿が書類を完璧に処理したのは、言うまでもない。
ようやく通常運行な司馬懿さんですね(笑顔)
こんな我侭と云うか隙は本当に親しい相手にしか示さない曹丕な気がするので、
司馬懿はそう云う意味でも幸せを噛みしめてればいいと思うのです。