「……暑……」
喧しくも響く蝉の声。
陽射しを避けて部屋の奥に授けた筈の席、まるで耳のすぐ傍で鳴く様な、この迷惑極まりない演出は何なのだろう。卓にべたりと伏した姿勢のまま、いっそ勘繰りたくもなる何処かの誰かの悪意を、曹丕は低く呪った。
夏の盛り。太陽に灼かれた大気は熱く澱んで、室内に在ってさえ体力気力は容赦無く奪われる。どんな場面においても、人前では決して崩れぬ涼やかな挙措、あたかも精緻優美な彫像よと実しやかに賞される曹丕ではあったが勿論、実際そうでも無い訳で。人肌で生温くなった部分を嫌い、僅かな涼を求めて卓上をじりじりと水平移動しつつ、忌々し気に独りごちる。
「……何から何までただの無駄、不条理に過ぎるぞこんな暑さ………くそ、夏など永劫来ぬが良いのに…っ」
「―――似た様な仰せを、半年前にも聞いた気が致しますが」
埒も無い独言に、戸口付近から応じる声。実は夏も冬も苦手な己の性を冷静かつ唐突に指摘されるのに、曹丕は全くの無反応だ。低く深く響く様な感じの声音、大体、私室の最奥にまで断りも無く上り込む、不躾な人間は二人と居ない。それなら、何を取り繕う必要も無い訳で。
一方、遠慮の無い侵入者――司馬懿の事である、当然――の方とても、そんな主君を咎めるつもりは毛頭無い。彼にすれば、恋人が見せるどんな風情でも愛しかったし、殊それが極々限られた相手にしか晒されない類のものであるなら、尚更。むしろ至福の境地、と云うところだったので。
「……これ以上…不快感を煽ったら、叩き出す」
司馬懿が堪えきれずに零した微かな笑みを、どう誤解したものか。相手の密かな悦びを完全に黙殺しつつ、不機嫌さを五割は増した口調で曹丕が宣告する。卓と一体化した姿勢ではいまひとつ様にはならないまでも、余人であればまあ、部屋の気温が5度は下がったかと感じるだろう冷徹さなのだ、が。
「御意。ところで子桓様、桃が冷えておりますが食されますか?」
「…………食う」
―――この辺りの呼吸はお互い、心得たものである。
一応諒解はした曹丕だが、好物を前にしても微動だにしないのは、苛立ちからよりもむしろそれすら億劫だと云うことだろう。今度は明らかな苦笑、司馬懿が盆を卓へ置く音も耳に伝わっている筈だけれども、やはり一瞥すらくれない。
既に慣らされてしまった気配は何ら苦にもならず、無言でただ臥せって居ればそれだけで、すぐに気が遠くなる。安らかな眠りからは程遠い、だらだらと弛緩するだけの曹丕の意識はしかし、得も言われぬ刺激に擽られてふと収斂した。
確実に強さを増していく桃香の誘惑に、ようやく少し顔を上げれば、目前に光る剥き出しの果実。いつしか向かいに座した司馬懿が、切り分けた桃を一欠、手ずから差し出している。曹丕は芳香と穏やかな眼差しに促されるまま、形の良い顎を無造作に持ち上げると直接、瑞々しい実を口内へ受け取った。流水に十分に晒してきたのだろう、冷えた触感が心地良い。
「……甘い…」
「それは良う御座いました」
吐息交じりに呟く曹丕よりも更に、幸福そうに笑んで。折角ですから、温まる前に―――勧める司馬懿もまた、至極当然といった態だ。
司馬懿の手元が器用に動く度、甘い香りが部屋へ充満していく。途切れもせずするすると長く伸びる果皮の帯を、曹丕はぼんやりと眺めた。暑さを平然と無視する如く涼し気な所作、頃合いを見計らって口元へ運ぶ手付きは淡々として。だるさに任せて伏せたまま、ただ顔を少し上げただけの姿勢で諾々とそれらを享受しつつも、何やら少々腹が立つ。
――こちらは、こんなに参っているというのに。
「――さあ、子桓様」
「ん――…」
淀みの無い遣取りが、数度。最後の一欠が、これまた絶妙の呼吸で供される。抗い難く素直に口に含めば、柔らかな果肉は呆気なく溶けてしまって。芳醇の名残を惜しんで離れ様、長い指に残る甘露を、曹丕は思わずぺろりと舐めた。
「―――――っ…」
――あれ。
相手が小さく息を呑むのを解って、目線を上げる。視線の先、指を差し延べたそのままの姿勢で、当の司馬懿は固まっていた。曹丕の行動はどうやら、珍しくも彼の予想範囲外だったらしく、虚を衝かれて呆けた表情が妙に可笑しい。曹丕としても別段、他意は無かったのだけれども。それでも同じく予想外の効果が小気味良くて、ほんの僅か暑さを忘れる。だから。
「……ん…」
視線は逸らさぬまま、動けずに居る指先をもう一度、ゆるりと舐り上げてやる。次は少しばかり、意識的に。軽く歯を当ててから解放すれば、焦れて細まる司馬懿の瞳。深灰色のその奥で、確かな熱が生じて揺れるのを、曹丕は喉で弄笑
「………子桓様…」
「寄るな、暑い」
ようやく呪縛が解けたのか、欲望も露に躙り寄って来る男からをふいと身を躱して、曹丕は素気無く言い放った。司馬懿の表情がたちまち、憮然としたものに変わる。
「――――煽っておいて……酷いですよ、それは」
「何が?――俺はただ、桃を食べただけだが」
思わず詰る様な物言いに、そちらの精神鍛錬が足りないのだと、曹丕が意地悪く微笑してみせる。生憎と今日の曹丕には、相手をそこまで悦ばせてやる余裕は無い。まあ、近付かれれば暑いのは事実な訳であるし。――この際、気晴らしにもう少し嬲らせて貰うとしようか。
「…………成程」
明らかに愉しんでいるらしい主君の表情に大きく溜息を吐くと、司馬懿は諦めた様に僅か、身を引いた。そんな相手の所作を、満足気に曹丕が眺め遣る。辛さ耐え難さは幾分紛れはしたけれども、怜悧な頭脳の完全復調までには至らなかったらしい。彼はすっかり失念していたのだ―――相手がこの程度で諦観を甘受する様な、聞き分けの良い人間などでは全く無い、その事実を。
「っ!な、仲…っ―――…」
一瞬の隙。長身の影がつと動いて、曹丕の唇は強引に奪われた。堪らず後ろへ避ければぐらりと均衡を失う華奢な上体、そのまま容易く倒れて組み敷かれる。執拗に追い縋ってくる吐息は何と言うか、自明の理。
息が切れる限界まで解放もせず、貪欲に蹂躪し尽くしておいて。それでもまだ足りないとばかり、濡れた輪郭を丁寧に辿ってから離れる相手の舌を、無傷で逃がしたのは確かに失策であったろう。乱れた呼吸を整えながら、曹丕は己の不覚と当然、目前の不届き者に対する悪態を心中ひときしり吐き捨てる。
「―――――仲達、」
「何か?少しばかり、御相伴させて頂いただけですが」
努めて低く、搾り出される詰責に溢れる激昂にも一向怯んだ様子も無く。思い切り顔を顰めた恋人へお返しとばかり、司馬懿はしらっと嘯いた。
「さて、明日は何を貢ぎましょうか?」
当に、会心の笑み。鉄面皮を誇る司馬懿にすればそれは確かに椿事、現在の状況下においてはただ、憎らしいばかりの。
焼切る程にきつく睨みつけて、それでも性懲りも無く触れてくる指に、曹丕は今度こそ思い切り噛み付いた。
曹丕は夏の暑さにも冬の寒さにも弱そうだなあとかそんな妄想から。
珍しくも司馬懿優位で終わったんで自分でも吃驚した(笑)
とりあえず次は枇杷なんてどうだ、仲達。