詩 伯
「――五月蝿い」
明らかに苛立ちを含んだ硬質の声が、部屋の空気を打つ。余人であれば思わず身を竦ませたであろう主君の言葉に、物怖じすることなく司馬懿は応えた。
「子桓さま」
「黙れ。俺が決めた。お前が口出す必要はない」
曹丕の政務室である。ここで司馬懿と会見する時、大抵において余人は差し挟まない。それ故、会話の内容に斟酌する必要はないのだが、今回のような場合はそれが仇となるようだった。
きっかけは些細な事である。ほんの僅かな方針の食い違い。常であれば問題なく折り合う程度のものである筈だったが、どうやら本日、主君の機嫌は芳しくないらしい。
「ですが――」
「くどいぞ、仲達!」
こんな時でも無表情のまま続ける相手に、曹丕がぴしゃりと言い放つ。
「下がれ。――しばらく、顔を見せるな」
「………」
内心溜息をつくと、司馬懿は一礼する。このあたりで引き下がっておくべきだろう。実の所、二人の間ではこの程度の口論など左程珍しいものではない。少しの時間があれば冷静さを取り戻せる聡明さを曹丕は有していたし、常の主君の判断の正しさを司馬懿は確信していたから。――最後の台詞は、彼にとってかなり心穏やかでないものではあったが。
「失礼します、公子様」
退出しようとする司馬懿と入れ違いに、一人の文人が入室して来た。興味のない司馬懿には馴染みが薄いが、詩人として著名な男であったと記憶している。文人は曹丕に恭しく頭を下げつつ言った。
「今夜の詩会のことで御座いますが、万事滞り無く準備が整っておりますので、ご報告を」
「そうか――今宵だったな」
ふと、唇に指を遣りながら曹丕が応える。
文学を好み、自ら溢れんばかりの才能を有する曹丕は、父や弟と共に文壇の中心人物であり、文人達の集まる宴や詩会などを主催する事が珍しくない。尤も曹丕の場合、自分を取り巻く文人達や、賛辞などにそれ程興味がある訳でもなかったが――詩会の開催を当日まで失念していることからも、それは明らかだが――一種の義務のようなものとして捉えているようだった。
――大体、口先だけの輩が派閥形成だのなんだの、煩わしい。
彼らに対するこのような司馬懿の蔑評は、無風流人の不理解からくる偏見を謗られても仕方ないものであっただろうが、事実の一端を表すものではあった。未だ先の見えぬ――と思われている――曹家の後継争い、そこに介入しあわよくばと企む口舌の徒も少なくない。勿論、そのような輩ごときに惑わされ、心を許す曹丕ではあろう筈もなかったが。
そんなことを考えつつも、表面上は完璧な礼儀を装いやり過ごそうとした司馬懿に、すれ違いざま相手が声をかける。
「これは司馬懿殿。よろしければ貴君も如何ですかな?」
どうやら。表に出さずとも、悪意というものは伝染するらしい。
善意からの誘いを装いつつも、その真意は明らかである。今まで、詩会などの場に司馬懿が参加することはなかった。何よりも実務を重視する司馬懿は、文学や芸術に対する造詣が深いとは言えない。それは本人も自覚しているところで、むしろ自分には必要のないものと切り捨てた結果なのだが、口性ない文人達の間では、それが中傷の格好の材料となっていた。曰く――無粋、無風流、仕事人間、冷血感。
それはまったくの事実であったので、司馬懿はそうと知っても別段気に病みはしなかった。結局、彼らは曹丕が重用する新参者が妬ましく、気に入らないだけなのだ。曹丕を憚って中傷すら声を潜めてせざるを得ない輩など、侮蔑や優越感の対象になりこそすれ、恥じ入る必然性など欠片ほども感じない彼だった。だから、この程度の厭味などどうということもない。
「……生憎、無風流者ですので」
それは残念、などと嘯く相手の勝ち誇った顔を内心冷笑しつつ。歩き出した司馬懿の背に、曹丕が声をかけた。
「――待て」
振り向けば、端正な面に人の悪い笑みが浮かんでいる。司馬懿にしか気付けない程度に微かなものではあったが。何となく、嫌な予感がした。
「たまには同席してはどうだ、仲達?無味乾燥な文章ばかりを相手にしていては、感性とても枯れてしまう」
くすり、と。今度は完全に笑って、曹丕が続ける。今まで、曹丕が詩会に司馬懿を誘ったことはない。からかっているのだ。どうやら、先刻のことが後を引いているらしい。事の発端である文人はと見れば、意外な事態をとっさに把握できていない様子である。
「それでは、いざという時に困るぞ。――お前とて、愛を囁く相手くらいはいるのだろう?」
「………」
最後の台詞は、完全に当て擦りである。
時折、この主君はこのような稚気を見せる。その相手は司馬懿を始め、ごく限られた人間だけであったが。主君のその、どこか挑発するような瞳を見つめて、司馬懿は口を開いた。
「―――それでは」
お邪魔させて頂きます、と司馬懿が一礼した時。断るとばかり思っていた曹丕は思わず絶句したが、それ以上に舌打ちしたいのは司馬懿自身であった。どう見ても、場違いなのは明らかである。
しかし。後には引けない事態というものも、この世には存在するのであった。
∽∽∽
「今晩は、仲達殿」
「長文殿」
背後から声がかかったのは、座の中心で文人達に囲まれる主君を司馬懿がぼんやりと眺め遣っていた頃であった。末席とは言え、慣れない場でさぞかし所在無いだろうに、そのような様子を欠片も見せず泰然としているあたり、この男の可愛げのなさが窺える。そんな「可愛くない」後輩に、陳羣は柔らかく微笑んでみせた。
「珍しいこともあるものですね。貴方がこのような席に参加するとは」
「それはお互い様でしょう」
「まあ、そうですね」
席を勧めた司馬懿から酒杯を受け取りながら、陳羣が続ける。
「もっとも私の場合は、めったにない珍事を見物しに来ただけなのですが」
「……見世物ですか、私は」
お互い、この程度の軽口は通じる相手である。司馬懿と異なり、陳羣は生粋の文人であり、詩文の才もある。けれどその潔癖で控えめな性格の所為か、このような不特定多数の人物が集まる場には足を運びたがらなかった。今回のことはおそらく、司馬懿の出席という常にない事態を心配しての来訪であろう。重鎮である陳羣が側にいては、万が一低俗な輩が、面憎い新参者に恥をかかせようと企んだとしてもままなるまい。相手の細やかな心遣いに司馬懿は感謝していた。曹丕という存在を通じて、司馬懿はこの年長の同僚に同志めいた親近感を抱いている。
司馬懿の鉄面皮が微かに和らいだ時、座に歓声があがった。ふと、中央に目を遣った陳羣が納得したように呟く。
「ああ、子桓さまの詩ですね」
自然と静まった座に、曹丕の高過ぎず低くもない美声が流れる。決して声量が大きい訳ではないのだが、よく透り朗々と心に響く。誰しもが一声も発することなく聞き惚れざるを得ない、旋律。
「……相変わらずお見事だ。言の葉はその人物を表すと言いますが、あの方にはいつも実感させられます」
「ええ…」
詠み終えた途端、起こった大歓声と賛辞すら気に留めた様子もなく、僅かな笑みを湛えた表情を崩さない曹丕の冷静な挙措を見つめながら。陳羣の感嘆に、司馬懿は同意した。
司馬懿には、詩文の良し悪しは解らない。風流の機微を解する詩心を持ち合わせてもいない。厳しいほどの現実主義者、実務家である彼には、無用なものであるからだ。
しかし、そんな彼ですら、主君の形良い唇が紡ぎ出す詩歌に惹き付けられずにはいられなかった。理論に裏打ちされた流麗な韻律。決して激情に流されることはない、計算された抑揚と表情。それはこの上なく美しく冷たく――怜悧であった。完璧な美、それを具現化したらおそらくこうなるだろう。心を揺さぶられずにはいられない。きっと、誰もが。――けれど。
「――けれどね、仲達殿…」
司馬懿の思考を、陳羣の静かな声が遮った。その瞳はじっと、曹丕を見つめている。
「このような時…感嘆すると同時に、寂しさを感じるのですよ。確かにあの方は聡明で、お父上の期待にすら完璧に応えておいでだ。それでもね」
俯いた顔を曇らせながら、陳羣は続ける。
「御立派になればなる程……あの方を見るといつでも、泣いている子供を思い出す。寂しくて、哀しい。――このような事、不敬を問われても当然ですが」
「―――」
陳羣の告白に、司馬懿は沈黙をもって応えた。端正な眉が僅かに曇る。
冷酷なまでに完璧な人間。それがこのような公の場において見せる、曹丕の仮面であることを、司馬懿は知っている。覇者の息子として、相応しくあるように。誰にも心を悟られぬように。他人を、自分すらも欺く為の――仮面。
「それでも、そう申し上げるといつも笑われるのですよ、あの方は。心配性だな、などと仰って。……そうして私は、自分の無力さを痛感するのです」
陳羣の発する声は静かだが、それだけに深い憤りや自責の念がうかがえた。この心細やかで聡明な人物にとって、曹丕と接した十数年の月日において、そんな機会が一再ではなかったのであろう。
「時折垣間見せる、切なげな表情に気付いてしまうだけに――辛い」
「……長文殿」
何かを思い出したのだろうか。吐き出すように呟いて顔を覆った陳羣の肩に、司馬懿はそっと手を置いた。
「貴方には、辛い事であったかもしれませんが――」
常通り、抑揚のない声が静かに続ける。それでもその声は、強い確信に満ちていて。陳羣は顔を上げ、司馬懿の方へ向き合った。
「そんな風に思う人間の存在こそが、あの方にとって何より幸福だと、私は思います」
仮面の下の。本当は人一倍敏感で、傷付きやすい
精神。
その存在に気付く事。それを何より、大切に思う事。――それこそが。
「仲達殿……」
「――解っていらっしゃいます、子桓さまは」
だからこそ無意識の内に、陳羣に見せてしまうのだから。その心の、最も弱い部分を。――主君の性格上、余程信頼している相手でなければ、それはない。
「……有難う、仲達殿」
司馬懿の言葉に。陳羣は僅かに表情を和らげた。その口調には、確かな安堵が感じられる。
――過去は。辛い思い出は消せないけれど。
それでも、これから。変わっていく事は、出来る筈だから。
「本当に、色々な意味で。……貴方が居てくれて良かった」
「長文殿」
「私などがこんな事を言うのは、僭越も甚だしいとは思いますが――」
――これからも、子桓さまをよろしくお願いします。
そう言うと、陳羣は深く一礼した。
∽∽∽
「……しばらく来るな、と言った筈だが?」
「――申し訳ありません」
宴の後。
陳羣と別れた司馬懿は、曹丕の寝室を訪れていた。寝衣のみの姿で牀に身体を起こした主君は、ふん、と人の悪い笑みを浮かべてみせる。
「それよりどうだった、詩会は。少しは勉強になったか?」
気の利いた台詞のひとつでも言えるようになったのでは、と。弄るように微笑してみせる曹丕だ。未だ、明らかに根に持っている様子である。
「せいぜい精進するがいい。俺には関係ない事だがな」
からかうような、どこか拗ねているようにも見える意地の悪い表情は、彼を常になく幼く見せていたが、先刻衆人に曝していた微笑とは比べ物にならない程に鮮やかで、生気を湛えている。惹き込まれたように見つめながら、司馬懿は陳羣との会話を思い出していた。
――私に。
こんな表情を。こんな貴方を、見せてくれる。
それが嬉しいと――もっと、全て知りたいとそう思う。
「――本当に」
静かに歩を進めつつ、司馬懿は口を開いた。
「嫌になる位、無粋ですね私は。考えてはみたのですが、少しも良い句が浮かんできません」
「…ほう?」
「これでは、愛しい相手に想いを伝える事もままならない」
軽く首を傾げて見上げてくる曹丕。その細い身体をそっと引き寄せると、司馬懿は耳元で囁いた。
「愛して、います」
「――――……!」
突然の事に、目を見開いた曹丕はただ、自分を抱く腕に身を任せている。
睦言ならば、何度も聞いてきた。けれど。相手の今日の口調は、常にも増して真剣で深くて――どこか、切なげで。
「愛しています、子桓さま。……うまく言葉に出来ない自分が、恨めしい限りですが――」
主君を柔らかく抱きしめながら、司馬懿は続ける。
初めて、無粋な自分を呪った。くだらない口舌の徒すら、今は羨ましく思える。
――言葉になど、出来ない。
この想いを、どうすれば言い尽くせる?
こんな風に思える自分がいるなんて。貴方に会うまで、考えもしなかったのに。
「―――阿呆」
しばしの沈黙の後。
司馬懿から僅かに身を離すと、曹丕は相手を仰ぎ見た。至近距離で視線が絡まる。
「別に。詩を詠んでもらいたくて、お前を傍においている訳ではないぞ?」
――心に、響くのは。
美しく装飾された言葉であるとは限らない。……むしろ。
「子桓さま……」
どこか戸惑ったような表情の相手に、曹丕の唇がゆっくりと笑みを形作る。その微笑は、司馬懿をはっとさせる程に艶やかで美しく――眩しくて。
「存外、解っていないのだな、お前は」
「……は……」
からかう口調に、司馬懿が思わず微かに赤面する。
その様子が可笑しかったのか、曹丕は司馬懿の胸に顔を伏せ、くすくすと笑った。
そう、解っていない。
――俺が今、どれだけ満たされているかということも。
そうして。
未だ途方に暮れたような表情の相手を引き寄せると、曹丕はその唇に口付けた。
タイトルは「優れた詩人」の意。さて誰のことでしょう。
曹丕の詩ネタ書きたいなぁと思ってのネタな筈が、結局さっぱり詳しくないので
色々とスルーしまくりな点は全力で見逃してあげて下さい(笑)
そして初陳羣さん。主従の良き理解者、優しくて頼りになるおねえさん(ぇ)ポジションです。