想 憶
「――犬、だよねぇ」
「―――は?」
ある日。書類を抱え、曹丕の政務室へと向かっていた司馬懿は、背後から投げられた声に不本意ながらも振り向いた。立っていたのは、予想通りの相手。常日頃から不景気な――と、この相手に評される――顔を、司馬懿は思いきり露骨に曇らせた。
そんな司馬懿の様子を一向に意に介すことなく、その相手・郭奕は一人、納得したように頷いている。司馬懿は一層、不信感を募らせた。嫌な予感。――いつものことながら。
「うん、やっぱりそう。絶対犬」
「……何か?伯益どの」
或いは、無視するべきだったのかもしれない。この相手にかかわると碌なことがない。それは司馬懿のよく知るところであったから。けれど悲しいかな、このまま訳もわからず引き下がるのは、彼の矜持が許さなかった。促されて、郭奕が続ける。
「言われたんだけど。僕ってさあ、猫みたいだって。自由奔放で気分屋な所が、って」
「ほう、言い得て妙ですな」
――自分勝手で余計な事ばかりする所も、な。
心の中で、皮肉っぽく付け足しつつ。表面上は形式通り、完璧な礼儀正しさで司馬懿が肯定する。いかにもわざとらしいその態度に、相手が当て擦りめいたものを感じたかどうか。――尤も。完全に事実なので、そう思われようとも司馬懿としては一向に構わない。
「まぁね。で。子桓もどっちかって言えば猫でしょ。じゃあ仲達サンはどうかな、って思って」
「はあ…」
「そんなこと考えてて、気がついたんだけど。そう言えば僕さあ、犬って嫌いなんだよね」
気のない司馬懿の返事も、郭奕の話を遮ることは出来ないようだった。それにしても。毎度の事ながら、この相手の話し方には斟酌というものが無い。
「主人に対する、あの鬱陶しいほどの忠義心とか、根拠のない全幅の信頼感とかさ。なんか、苛めたくなるでしょ?」
「――いい御趣味だ」
「仲達サンは、犬だよね」
司馬懿の皮肉に、にっこり笑って郭奕が応える。――どういう意味だ、とは、問うまでもないだろう。
「絶対そう。僕が保証する」
「別に――どうでもいいことですが」
自信ありげに断言する相手に、司馬懿は内心溜息を吐く。犬だの猫だの、彼にしてみればどうでもいい話だったし、郭奕にどう思われようがなんら痛痒を感じない。
――やはり、相手にするべきではなかった。
司馬懿は激しく後悔する。時間の無駄もいいところである。
「そう?――子桓は、猫なんだよ?」
では、と話を切り上げて。踵を返しかけた司馬懿の肩が、不覚にも僅かに反応した。常は無機物のように冷静な司馬懿だが、ことこの相手に対しては――特に曹丕が絡んだりする場合は――少々勝手が違うのだ。司馬懿としては腹立たしいことこの上ないが、何故かどうしようもない。そんな相手の様子に、郭奕の瞳が楽しげに細められる。
「犬と猫って、合わないと思わない?」
「……場合によるのでは?」
――くだらない。
反論などする必要すらない程に。司馬懿は、嘲るような微かな笑みを唇に乗せた。この相手の言うことなど、いちいち真に受けてはいられない。好きなように言わせておけばいいのだ。何を言われようとも、気にする必要などない。そうだ。
「まして、我々は犬猫ではない。問題はないでしょう」
「かもね。――だけど」
まだ続ける相手に、司馬懿は背を向けた。そのまま些かの心理的優位を保ちつつ、立ち去ろうとした――その時である。
郭奕の唇から、ある決定的な一言が投げ掛けられたのは。
「子桓って、犬嫌いだよ」
――そう。
そんなものは、くだらない事だ。だから。
別に。気にしたりなど、しない。
∞∞∞
「――犬?」
二人で使ってもまだ充分の余裕がある、広い寝台の上。
熱く激しい行為の後の甘い疲労に身を委ねていた曹丕が、突然の司馬懿の台詞に問い返す。
司馬懿の腕の中で、まどろむように伏せられていた長い睫毛がゆっくりと持ち上がると、その水晶玉のような瞳が露わになる。惜しげもなく与えられる視線に軽い眩暈を感じながら、郭奕の言葉に司馬懿は納得せざるを得ない。しなやかで高貴な――この上なく美しい、猫。
――別に、気にしている訳ではない。断じて。
心中で強く主張しながら、司馬懿が応える。平静さを保つのに幾ばくかの努力を有したことを、彼が自覚していたかどうか。
「・・・お嫌いだと、伺ったのですが」
「別に、嫌いじゃないが・・・。何だ突然?」
いえその、と。珍しく歯切れの悪い返答を返す相手に、曹丕が訝しげな眼差しを向けた。軽く首を傾げる仕草が、常に無く幼さを感じさせる。限られた相手にしか見せない、表情。
「でも・・・そうだな。――苦手、というのはあるかもしれない」
「子桓さま・・・?」
遠くを見つめるような瞳。そこに浮かんだある種の感情を、司馬懿は見逃さなかった。
「あれは――まだ兄上が御存命だった頃だから、十歳くらいだったかな・・・」
促されて、曹丕は静かに語り始めた。
∞∞∞
時折。曹丕は幼い頃から、独りになることを好んだ。
当時既に、漢室になくてはならない存在となっていた曹操の息子という事で、曹丕の周りには自然と人々が集まるようになっていたのだが。その人々の善悪様々な思惑を、彼は幼いながらも感じ取り、煩わしく思っていたのかもしれない。
そんなある日。彼は乳母や侍臣達の目から離れて、曹丕は館の中庭に居た。別段、何をするという訳でもなかったが。兄弟たちと遊ぶことは稀だったし、彼を可愛がってくれる兄は忙しい人だったから。
どれくらいそうしていたのだろうか。がさり、という音に曹丕は振り向いた。そこに。
――え…?
大きな黒犬が一匹、こちらを見据えていた。その瞳に宿る異様な光と、荒く速い呼吸音に、曹丕の全身がざわり、と総毛立つ。思わず怯んだ一瞬、その隙を突いたように、犬が間合いを詰めてくる。
――いけない。
何故、こんなところに犬が紛れ込んでいるのか、という疑問。
怪我――犬の足からは血が流れていた――の所為で、犬が正気を無くしている、という理解。
それらより先にまず、何より曹丕の本能が危険を告げていた。
――目を逸らしたら、やられる。
そう、思った。だから。曹丕は毅然として面を上げ、真っ直ぐに相手の瞳を睨み付けた。
その犬の、狂ったように開かれた口から、唾液と低い威嚇の声が漏れる。それでも、曹丕の気迫に押されてか、それ以上近寄って来ようとはしなかった。
――去れ。
言葉でなく、視線で。曹丕が昂然と言い放つ。
――お前などに、用はない。
どれ程の時間が経ったのだろうか。
互いを睨み据えたまま微動だにしなかった両者の均衡を、破ったのは黒犬の方だった。唸り声を上げながらも、根負けしたように一歩下がる。そのまま踵を返すかと思われた、その瞬間。
ぎゃん、と。大きく一声鳴いて、黒犬が跳ねた。
短刀。どこからか飛んできたそれが、犬の脇腹に突き刺さっている。それを合図に、いつの間に潜んでいたのだろうか、曹丕の横にあった茂みから警備兵が飛び出し、犬を両断した。
「子桓さま、ご無事ですか!?」
続いて駆け寄ってきた乳母が、曹丕を労わるように抱きしめる。突然のことに訳のわからぬまま、曹丕はされるがまま立ち尽くしていた。ただ確かなのは、自分が助かったという事と――相手に、勝ったのだという事。
張り詰めていた緊張が解けた所為だろうか。それまで不可侵な程の平静さを保っていた曹丕の身体が、俄かに震え始めた。冷たい汗が流れる。自分の身体の倍はあるかと思われる、狂った犬。それどころではなく、自覚はしていなかったが、流石に恐怖を感じていたらしい。
その時。ふと、視線を感じて、曹丕はそちらを振り仰いだ。そのまま、固まったように身体が強張る。
――父、上。
中庭に面した回廊の上に、曹操が立っていた。いつものように、冷たい瞳で彼を見下ろしながら。方向からいって、最初に飛んできた短刀は、彼の手によるものだったらしい。それに続く警備兵への指示も、おそらくは。
――いつから?
最初から、全て?
視線を合わせたまま、瞳を大きく開いて見上げてくる息子に。黙っていた曹操が、ゆっくりと唇を開く。
「――そうだ。それで、いい」
「―――!」
決して、大きな声ではない。けれどその冷静な言葉は、やけにはっきりと曹丕の耳に届いた。それだけ言うと、曹操は、立ち尽くす曹丕に背を向けて廊下の奥へと消えていく。
一瞬のうちに。曹丕の身体の震えは止まり、汗はすう、とひいていった。けれど。
自分を取り囲む人々の声を遠くに聞きながら。曹丕はその背筋に、何故か先程よりも一層冷たいものを感じていた…。
∞∞∞
「――今にして思えば、それ程大きな犬という訳でもなかったのだろうが。なにせ、子供の頃の事だからな」
まるで他人事のように、曹丕は語る。その整った唇が淡々と動くのを、司馬懿は目を逸らすことなく見つめていた。
「今でも覚えている位だ、余程怖かったのだとみえる。……それ以来少々、犬は苦手だ」
「………」
軽く肩を竦めつつ締め括ると、司馬懿を振り仰いだ曹丕は微かに笑った。
「何だ?らしくないと笑うか?」
「いいえ。――いいえ、子桓さま」
静かに繰り返しながら。恋人の細い肩を、司馬懿はそっと引き寄せた。そのまま、包み込むように抱きしめる。
――おそらく。
印象的だったのは、心に染着いて離れないのは、恐怖心などではない。
見ていたのだろう、曹操は。最初からずっと。危機に瀕した我が子の行動を、ただじっと見ていた。非情なまでの冷徹さで。確かに、曹丕の資質を量るには絶好の機会であると言えたし、実際曹丕は充分に、彼の期待に応えたのである。けれど。
――この方が欲しかったのは、賛辞などではない。
誰よりも、父親に。いち早く駆け寄って、すぐにでも助け出して欲しかったに違いないのだ。例え万一に備え、危険の無いよう周りに兵が配置されていても。彼を救った最初の契機が、曹操自身の手によるものだったとしても。――それでも。
「仲達…?」
「――私が、お側におります」
黙ったままの相手の様子をいぶかしんだ曹丕の呼び掛けに応えるように、司馬懿はその腕にそっと力を込めた。静かな――深く強い意思を感じさせる声が、囁く。
――こんな風に。
知らず知らずの内に、色々なものを諦めていったのだろう、この人は。自分が酷く傷ついた事さえ、自覚する事も無いままに。
そうしてずっと、独りで生きてきた。その強さが――弱さが、愛しい。
「貴方を守ります。貴方を害する、全ての
存在から。――必ず」
これ以上、傷付けさせない。何からも、誰からも。
必ず、この手で。
「―――……」
言葉では言い尽くせない程の決意を、感じ取ったのだろうか。
優しく、強く。自らを抱きしめる腕に、曹丕はそっと身を任せた。
「――今の俺なら、そんな犬など一撃で屠れるが…。まあ、お前がそう言うなら、後ろで高見の見物でもさせてもらうとしよう」
「――ええ…ご安心ください」
曹丕の唇に微かな笑みが浮かぶのを見て取って、司馬懿も表情を和らげた。そんな相手を見上げた曹丕が、からかうような――些か意地の悪い表情を作って言い放つ。
「しかし何か…お前って、番犬みたいだな」
「え…っ」
誰よりも側にいて、主人を守り抜く存在。
司馬懿としてはむしろ、望むところだ。いつでも、そう在りたいと思う。けれど。
「……あの、犬は……」
少々情けない表情で。おずおずと切り出した司馬懿に、曹丕が失笑する。そうして。
「言ったろう?――犬は、嫌いじゃない」
そう言って。
そっと、柔らかく。司馬懿の頬に口付ける。
「……離れるな、俺から」
吐息よりも微かに。
囁く声が、耳元で静かに響いた。
…犬派の皆様ごめんなさい。や、云ったの私じゃないから!(笑)
曹丕視点だと如何しても色々とひどいお父さんになりがちであわわなのですが
冷厳なだけじゃないのは当然で巧いこと伝わってないだけなんだよー、
的な話もいつか書かないと曹操様ファンに叱られそうですよねえ←