建安16年、正月。
その日、許都は盛大な儀式の催行に活気づいていた。
この都市の――いや、この国の事実上の支配者である曹操の長子・曹丕の、五官中郎将及び丞相副への任命式が執り行われているのである。
しかし、宮中での豪奢な儀式の最中、父親の傍らに控えた曹丕の端正な面には、いかなる表情も浮かんではいなかった。
――失礼します――常の通り、案内も乞わずに入室してきた司馬懿を、曹丕が顧みる。
手触りのよい極上な錦の綾に、紅玉の飾りのついた黄金の冠。痩身を包む、普段の彼が身につけることは滅多にないあざやかな配色の衣装は、氷のような、と万人に評される曹丕の白く秀麗な容貌によく映えていた。
その優美な姿を、司馬懿は目を細め、改めて鑑賞する。
「――お見事でした、子桓さま」
「ふん…ただ、つったっていただけだ」
賛美の言葉にも眉一つ動かさず、曹丕はそっけなく答える。
「儀式ですから」
「別に欲しくもない官位の為に色々とわずらわされる身にもなってみろ。――まったく」
心底うんざりしたというように顔を歪めて、曹丕は司馬懿を睨み付ける。そのような表情でさえ、見るものを引きつけずにはおれない。
「…おまけに、この後は宴だぞ。こんなうっとおしい格好のままで」
曹丕がほんの少し動くだけで、その全身を彩る様々な玉が、しゃらん、と澄んだ音を立てる。確かに少々飾り立てすぎのような感がなくもないのだが、無数のきらびやかな装飾品も、曹丕の怜悧な美貌の前ではただの引き立て役でしかなかった。
本当に辟易そうな主君の様子に、司馬懿は表情をわずかに和らげた。
――曹丕以外、誰にも見せることはないであろう、表情。そうして、曹丕の側へとゆっくり歩を進める。
「とてもよくお似合いだと思いますが?」
「――そういう問題じゃない」
司馬懿の、無感情とも思える程冷静すぎる声に、曹丕は眉を顰める。傍らに移動してきていた司馬懿は、その細い顎をそっと捉えて上向かせた。
「本当ですよ。――他人の眼にさらすのが惜しいくらいです」
言って、柔らかく口づける。
「――ちょっ…仲達…!」
抗議しようとする曹丕だが。それを狙っていたかのような司馬懿に、舌を絡め取られてしまう。――そうなってしまえば、もう曹丕に抵抗の術はない。
「…や…っ、ふ…」
さんざん口内をまさぐりつくした司馬懿の舌から解放されたとき、曹丕は力の入らない身体を司馬懿に預けるしかなかった。それでも、潤んだ瞳で相手を睨み付けて、言う。
「…宴があると…言っている」
「まだ、時間はあるはず。…今、欲しいのです。どうしても」
酷薄そうな端正な面に、薄く笑みを含んで。その瞳にはまぎれもなく、欲望の炎が宿っている。静かな、氷点下の炎。――触れるもの全てを、凍てつかせるかのような。
普段、何に対しても無関心に見えるこの男が執着するのは自分だけ――それを再認識できるのは悪くないが、それとこれとは話が別である。襟元をくつろげ、わざと痕が残るように首筋を吸う司馬懿を押しのけようと努力しながら、曹丕はなおもゆずらない。
「…着物が…。――このままで来いとの…父上の、仰せだ」
「おや、お気に召されていなかったのでは?――ご心配なく。うまくやります」
その抵抗を、余裕の笑みで軽くかわして。司馬懿が続ける。
「――それに…」
「――っあ…!?」
いつの間にか、裾を割って侵入してきていた司馬懿の掌に自身を柔らかく握りこまれ、曹丕は身じろぎした。感じやすい身体は、すでに反応し始めている。
「…それに、このままではお辛いでしょう?――随分と、久しぶりですから」
「…っ…誰、の…っ!」
「ええ、私のせいですね」
誰のせいだ、そう言い返そうとする曹丕の先手を取って、司馬懿が答えた。
――責任はとらせていただかないと――こともなげに言う相手に、曹丕はしばし絶句する。
そうして。
彼は折れた。
「――着物…汚したら殴るからな」
――半ばは本気なのかもしれない、そんな捨て台詞を残して。
「…っ…は…あ…」
静かな部屋に、曹丕の声が響く。
いつもどおり、こちらから呼ばない限りは誰も来ないように言いつけてある部屋の卓上に、曹丕は横たえられていた。極彩色の衣服から露わにされたすべやかな素肌は、その対比のためか常よりも白く、透きとおって見える。全て脱がせてしまおうかとも考えたものの、流石に後で元通りにするのが大変だろうとやめておいたのだが――予想外の効果に、司馬懿は存分に目を楽しませた。
「…ん…仲達…」
司馬懿の掌や唇がなぞるたびに、曹丕の白い肌は淡く染まり、形のよい唇からは甘い吐息が漏れる。己の所作の一つ一つに敏感に反応する相手に、司馬懿は満足げに目を細めた。そうして、耳元で、囁く。
「…お寂しかったですか、子桓さま?」
「――!」
ここのところしばらく、二人とも今日の準備に追われて忙しく、久しく牀を共にしていなかったのである。司馬懿の低い美声が言わんとするところを理解して、言い返そうとする曹丕だが。
「誰が…あっ…!」
胸の突起を長い指に捉えられて、白い喉がのけぞる。その細い首筋にかみつくように口づけると、司馬懿は曹丕の胸に唇を這わせた。笑みを含んだ声で、続ける。
「…本当に…?冷たい方ですね、貴方は」
「…知る、か…っ…」
白い胸でそこだけ色づく突起が、柔らかな、それでいて執拗な刺激によって赤味を増す。敏感な部分を舌で転がされて、曹丕は思わず声を漏らしてしまう。
「ん…は…あっ…」
その間にも、司馬懿の大きな掌は、曹丕のなめらかな肌を柔らかく撫でまわす。その、壊れ物を扱うかのような慎重な愛撫に、曹丕は意識が朦朧としてくるのを感じた。
そんな曹丕の様子にかすかに微笑むと、司馬懿は脇腹をなぞっていた指を下肢へと這わせる。
「あ…っ…!」
既に熱を持っていた自身を冷たい指に絡み取られ、曹丕は息を呑んだ。司馬懿は、愛おしむように愛撫を続ける。
「やっ…あ、んっ…」
残酷なほどに優しく、甘い刺激。さらに敏感さを増した身体は、衣擦れにさえも悲鳴を上げてしまいそうだ。
「…っは…あ…あん…っ」
曹丕のどこか苦しそうにも聞こえる声に、司馬懿はふわりと曹丕を抱きしめた。震える瞼に口づけ、耳朶を柔らかく噛んで、囁く。
「――私は、寂しかったですよ、子桓さま。…ずっと、貴方を抱きたかった」
「…ん…っ…」
ゾクリと、背中を走る感触。――それは、まぎれもない快感。
――言葉にすら、感じてしまう。
「…子桓さま」
「…はぁ…っ…」
貪るように交わされる、深く長く――熱い口づけ。それは、この上なく甘くて。
休みなく動いていた司馬懿の掌が、いっそうの情熱を込めて蠢く。曹丕の意識は溶かされ、熱く痺れてゆく。――限界が、近い。
「…っ…仲、達…っ…もう…っ」
「――はい」
熱く潤んだ瞳をして縋り付いてくる主君の、小刻みに震える細い指に口づけて、司馬懿は身体をずらした。綺羅からのぞく白い膝を優しく割り、細い両脚の間に身を沈める。そうして、先程までの愛撫で存分に昂められた曹丕自身に、恭しく唇をあてた。
「――っ!あ、ん…っ!!」
曹丕のしなやかな身体がビクンとはねる。無意識のうちに逃れようとするその細い腰は、司馬懿に捉えられ、舌が這わされる。
「や…あ、ああんっ…!」
そのなめらかな動きに、意識がはじけそうになる。しかし、今にも達しそうな程に昂まった身体は、自身を捉えて離さない司馬懿の手によって、その欲望を阻まれていた。
「…っあ…はな…ちゅ、たつ……んっ…!」
「…辛いですか?」
焦らすように囁いて、司馬懿は震える曹丕を甘噛みする。
「――本当に…お綺麗ですよ、子桓さま…」
「っぁああっ…!」
曹丕が、悲鳴に近い声を上げる。焦点の定まらない瞳からは、美しい涙がこぼれている。
「…お、願…も…いかせ…てぇ…っ…」
「――承知しました」
恋人の懇願に頷くと、司馬懿は曹丕を解放し、含んで強く吸い上げる。
――本当に…他の誰にも、見せてなどやりたくはない――
曹丕を飾る無数の玉が一斉に、しゃらん…と音を立てた。
かすかに、楽の音が聞こえる。
――宴の支度がととのったらしい――
どこか他人ごとのように感じている自分に気付き、曹丕はかすかに微笑った。
……いや、所詮は他人ごとなのだ。丞相副という地位を授けられたことで、弟に一歩先んじたと狂喜する配下の者たちの思惑も。自分と父の関係を気遣う弟の気持ちも。自分と弟の器を品定めするかのような、父の冷たい視線も。――父は…自分がこのような地位を望んでいると、思っているのだろうか。
――俺は、そんなものはいらない。
――俺が…望んでいるのは――……
「――できましたよ、子桓さま」
司馬懿の声に、閉じていた瞳を開け、姿見を見つめる。曹丕はそこに、脱がされる前と寸分違わぬ拵えの自分を認めた。衣服も髪も、美しく整えられている。
「…器用だな、お前」
感心半分、呆れるの半分で言う曹丕に、司馬懿が答える。
「うまくやる――そう、申し上げたでしょう?」
「そうだな。…着物も、汚れなかったようだし」
――殴られなくてすみました――そう言って司馬懿が差し出した手をとって、曹丕は優雅に立ち上がった。玉が澄んだ音を立てる。――宴へ。
会場へと続く長い回廊を、並んで歩く。宴のことをふまえた司馬懿の配慮のためか、身体はさして辛くもない。幾人かの侍女が、その姿に魅せられたように立ちつくすが、曹丕はそれらを一瞥もせずに歩を進めてゆく。
そうして、宴の間の目前で、曹丕は立ち止まった。当然宴に出席しているであろう、父親の顔を思い浮かべる。圧倒されるほどの激しさと、冷たさを併せ持つ、父。
――父上。
――私が、欲しいのは。本当に、欲しいものは。
そこまで考えて、曹丕は苦笑する。
自分でも、よくわからない。地位でも、権力でもない。では、何を。――あの父に、何を求めようというのか。
「――子桓さま…?」
いぶかしんだ司馬懿を振り返って、曹丕が問いかける。
「仲達。…お前は、俺が何を望んでいるかわかるか?」
「――」
虚をつかれたように、司馬懿が黙り込む。そのらしくない様子に、曹丕は笑った。
「…いや…何でもない。忘れろ」
身を翻して、宴の場へ向かおうとする曹丕。その背中に、司馬懿が答える。
「――存じ上げている、つもりです」
「……!」
静かな、声。控えめな口調とはうらはらに、自信に満ちた。――そしてどこか、やわらかい。
「――そうか」
振り向くことはせずにそう言うと、曹丕は扉の前に立った。
――ならば、いい。
口には出さずに、つぶやいた言葉。――仲達には、伝わっただろうか。
大きな扉が、音もなく開く。
冠の紅玉が揺れて、しゃらん、と鳴る。
――宴は、始まろうとしていた。
初懿丕SS、だと思う。
そう…初期は結構強気だったんですよね司馬懿…。
いつの間にあんなヘタレになってしまったの(笑)