花 酔 月 * 三 月
「子桓さま…っ」
ゆらり、風に揺れるように音もなく崩れ落ちた細い肩。
辛くも抱きとめる司馬懿の腕にその身を預けた恋人の白い肌は仄かに朱く、足取りは舞いの様。
「―――少々、過ごされましたね」
「…偶にはな」
くすりと。眉を僅か顰めた相手をはぐらかすように、曹丕は小さく笑んだ。
「俺の介抱なんて、滅多に出来るものじゃないだろう?」
「……光栄ですな」
溜息混じりの台詞、それでもその口調には咎めるような響きはない。……主君のいつにない悪酔いの理由が、彼に解らない筈もなかったから。
この日。許都にある曹家本宅では、当主曹操による盛大な宴が催されていた。
折しも、曹家長子である曹丕と次子曹植との後継者争いが誰の目にも必至となりつつある頃。華やかな宴の席にも自然、微妙な空気が漂わざるを得ない。
同じ座に居ても、親しい会話など僅かも交わし合うことのない父親。
取り巻きを従え、ことあるごとに兄への対抗心を露にするようになった弟。
遠く離れた席、数多の寵臣と談笑しながらも、曹操は時折測るような鋭い視線を息子達に投げた。こと父親の言動に対しては過度に敏感である曹丕が、それに気付かない筈もなく。
酒宴にも決して浮き立つことのない、聡明かつ完璧な言の葉と冷艶な微笑を衆目に曝す一方。とめどなく杯を重ねる白い手の微かなぎこちなさに、気付いたのは司馬懿だけだったろう。痛々しい程張り詰めたその精神が、ほんの僅かでも紛れればとあえて抑止せずにいた深酒に、主の中座を幸いとばかり宴の席を抜け司馬懿と二人になった途端、緊張の糸が切れた曹丕の意識は白濁した。あたかも呪縛から放たれたかの如き表情、唇から零れ落ちる安堵の溜息に、司馬懿の胸は締め付けられる。
―――こうしていつも離さず、腕の中でお守り出来たなら。
「……どうなさいます、御車まで抱いていきましょうか」
「阿呆」
肩を包む腕に自然、込められる力。相手が寄せた顔の微妙な表情に微苦笑してみせると、曹丕はそっとその身を起した。どこかふわりとした口調で、見上げる紫暗の瞳が続ける。
「少し休めばすぐ醒める……それより、水を」
「承知しました。こちらにお持ちしますか?」
「ん…」
目礼して踵を返す司馬懿を、壁に背を預けた姿勢で見送って。
天を仰ぎまたひとつ、酒精の宿る息を吐いた曹丕の視線が、ふと宙を泳いだ。意識を掠める、遠い記憶。
「……この馨り」
誘われるままに、階を中庭へ降りる。
探るような呟きはそのまま、静かに茂る木々の間へと消えた。
∽∽∽
「――ああ」
屋敷の最奥。茂みの間を泳ぐように抜け、探し求めた存在を認めて、曹丕は感嘆の溜息を漏らした。
「やはり……まだ、残っていたか」
もうずっと長い間――曹丕が幼少の折から既に、使われていない庫の合間。静寂なる茂みの陰にただ一株、止め処なく溢れる芳香と無数の白い花弁。
瑞香。
どういう風向きの加減か、強い馨もこの周辺以外には流れ出ることはないらしく、誰に知られることもなくただひっそりと、その花は咲いていた。まだ幼いあの日、曹丕だけがその存在に気付いたのは偶然だったし、知らなければ今日また、希薄すぎる甘香に遠く誘われることもなかっただろう。
「……懐かしい、な」
細い指がつと、月光を弾く白い花弁へと惹き寄せられる。近付く程に濃厚さを増す馨に、曹丕の瞳が揺らめく。……遠い日々に重なる、感覚。
兄が、没して。
その絶望から立ち直ることも出来ないままに降りかかる周囲の視線や要求から、ほんの一時でも身を隠したくて。
人目を避けて一人、ただこの花を飽かず眺めた。強い芳香に酔ったようにただ、何も考えず。それで何が変わる訳でもないとわかっていても、その時間は麻薬のように曹丕を虜にした。そしてその可憐な姿はまた今も、変わらず彼を魅了する。
――仲達は、何と云うかな。
心を浮遊させたまま、端正な唇がふと呟く。
恋人の姿が忽然と消えているのに気付き、さぞかし慌てていることだろう。余人の前では決して崩れることのないあの鉄面皮が、蒼く朱く変化する様を想像して、曹丕は少し楽しくなる。
――特別に。
見せてやるとしようか。幼い日の、宝物とも言うべきこの妙花を。
……尤も、呆れるよりいっそ笑ってしまう程に無粋な男だから、気の利いた反応などは期待出来ないけれど。
くすりと微笑うと、感じる軽い眩暈。
やはり少し飲み過ぎたのか――それとも、花に酔ったか。瑞香の根元、その痩身をゆらと滑り込ませる。そのままそこで、司馬懿を待つことに決めた。
とはいえ、この花の存在など、司馬懿が知る筈もない。滅多に訪れることのないこの館は、彼にとっては不慣れな場所だ。それでも。
――仲達は必ず、俺を探し出すから。
疑う余地もない、それは確信。至極当然のことに、思える。
独りになる為の秘密の場所で、今は誰かを待っている自分がどこか可笑しく面映い。
照れたように小さく笑って、漂う芳香を吸い込んだ。
「早く」
身を纏うように包み込む甘い馨。柔らかく満たされる感覚に、曹丕はまどろみ始める。
「早く見つけに来い、仲達――…」
それはまるで、聞き馴染んだ低い囁きに似て。
∽∽∽
かさり。
聖域を護る深い木立が、微かに揺れる。
「―――――……」
香木の元、無造作に横たわる影。闇に浮かび上がる肌はその花よりも白く煌き。
目前の光景に、彼は思わず息を呑んだ。
「こんな処で…お風邪でも召されたら」
戸惑い含みのその台詞は、夢路の曹丕には届かない。小さな吐息をひとつ、そのままふわりと抱き上げる。
まるで、至高の宝物に対するかの如き扱いに。長い腕に囚われても尚、曹丕が覚醒する気配はなかった。そのまま極力揺らさぬようにとの慎重な足取りで運ばれたのは休息用の小部屋、柔らかな牀の上へと静かに横たえられる。
「……ん……」
解れて落ちかかる細い髪の筋を、長い指が掻き上げる。すべやかな頬にそのままそっと触れたままの感触に、曹丕は微かに身じろいだ。酒精か沈香にか、甘く痺れる感覚に酔い溺れたままの睫毛がゆるりと持ち上げられ、紫玉の輝きが露になる。朦朧とした意識は目前の人影を呆と捉え、花の唇が微かに動いて、
「―――仲、達…?」
「――――――――――」
誰何の形をした、むしろ確認するような響きの漂う呟きに、頬を滑る指がぴくりと止まる。
一瞬の沈黙。寝物語をせがむ子供を思わせる夢現の瞳に促されるように、長い影は引寄せられて曹丕を蔽う。白い額に柔らかく、唇が触れた。
「―――ごゆるりと、御休みなさいませ――…」
温かな感触。
どこか遠くに感じる、静かな囁声。
安堵の吐息を零して、曹丕は再びふと意識を手放した。
この上なく清浄で透明な、柔らかい微笑みを湛えながら。
∽∽∽
夜半の風が、激しさを増し吹き荒ぶ。
人気のない回廊の欄干にその身を預け、曹植は夜風に弄ばれていた。
「――
時間が」
誰ともない呟きが風に攫われる。唇を彩る密かな微笑。
「
時間(が戻ったかと思いましたよ、兄上――…」
どこか空ろな、遠い瞳。
見つめているのは、ただ。
――最初は、偶然だった。
あの瑞香を、傍に佇む兄の姿を初めて見つけたのは、いつの頃だったろう。
目前の花を一心に見つめる澄んだ瞳、握り締められた白い掌、華奢な背中。
重く圧し掛かる巨大な何かに、毅然と立ち向かおうとする、その気高い精神。
魅せられたのは、溢るる芳香を放つ白い花ではなく。遥かに美しく稀なる存在に、曹植は一瞬で心を奪われた。憧れた。
それから。瑞香の傍らに兄を探すことが、密かな曹植の日課となった。何度機会が訪れても、幼い彼はただ、絵画を思わせるその神聖さに声をかけることも出来ず、遠く姿を望むのみだったのだけれど。彼の人が、振り切るように踵を返すその時まで――いつまでも。
おそらくは自分以外誰も知らない兄の一面を垣間見て。あたかも二人だけの秘事を共有しているような錯覚に、曹植は密かな喜びを感じたものだ。そうしてそのまま、時は過ぎ。
懐かしい過去を胸に抱き、戯れに足を向けたあの場所で。
――今日また、貴方に会えるなんて。
時を経て尚。その輝く神聖さと美しさに、眩暈がした。遠いあの日のように。
それでも。
二人の外見も周りの状況も全て、あの頃とは変わってしまったけれど。
「―――いや、変わらないのか…?」
暗い瞳で、自嘲的に吐き捨てる。
――そう、何も変わらない。
抱き上げても、口付けても。あの美しい微笑を与えられたのは、決して『私』ではなかったのだから。
触れることは、出来ない。あの
存在(に。
昔も今も。遠く見つめるだけでは―――このままでは、死んでも。
「………そうだ。それがわかったから、だから」
決めたのだ、自分は。
見つめるだけではいられないと、気付いてしまった。触れられはしないと、気が狂いそうな絶望感に囚われたあの瞬間。――そう遠くはないあの日、兄と争う事を認めたあの時に。
必ず。
何を引き換えにしても、ほんの一瞬の永遠でも、手に入れる。
例え他人を、自分を。……愛しい彼の人自身をすら、傷つけても。
身勝手で醜い、どす黒い欲望に吐き気がする。それでも、自覚したそれはどうしようもなく強く、もう止める事など出来はしない。願いが叶うその時が少しずつ、近付いているのがわかる――その歪み病んだ、幸福感。
――――変わったのはただ、私の心。
そうして。
そう望んだのは、他でもない自分自身。
強風に、木々達がざわめく。
春の、嵐。この風では、瑞花の妙香も掻き散らされてしまうだろう。
――もっと、強く。
天を仰ぎ、曹植は願う。
そのまま全てから――あの男の目から、隠してしまえ。
薄い唇が、闇い笑みに歪んだ。
「――子建さま」
掛けられた声に、ゆらりと視線を泳がせば。薄暗い廊下の向こう、侍臣の楊修が歩いてくる。
「お探ししておりました。丞相に加えご子息殿まで不在では、宴も灯が消えたようで」
心ここに在らず、暗くおし黙ったままの曹植に、敏感な部下は眉を顰めた。
「……どうか、なさいましたか?」
「―――いや…何でもない」
「ですが」
「構うな」
にべもない様子に、納得いかないながらも、楊修は口を閉ざした。気遣わしげに泳いだ視線が、ふと曹植の肩口で留まる。
「……子建さま、お召し物に何か……」
気のない風情で目を遣れば、白く微かな煌き。――瑞香。
「――――…」
「花弁――道理で。良い馨りが漂うと思っておりましたら」
「良い」
払おうと伸ばされた楊修の腕からつと身を交わし。
「触るな、これは」
自ら採った掌を、強く握り締めた。
にじられ押し潰された花弁が掌を濡らし、最後の一瞬、一層の芳香を放つ。陶酔。―――目が、眩む。
「これは、証なのだから」
あの、妙なる花に。
至高の
秘花(に触れた、その証。
「――馨しい、な――…」
束の間の
感触(を、思い起こすように瞳を細め。
掌に残るその欠片へと、曹植は恭しく唇を寄せた。
…すみません、早速タイトルが捏造です←
あと懿丕と思えばどっこい植丕で申し訳ない…ネタばれなるから注意書きも出来ないし!(笑)
作中の「瑞香」は沈丁花の中国名、らしいです。
麗人と清楚な花弁、甘い芳香って良く似合うと思うんですが…如何でしょう?