昨夜から降り続く雪が、視界一面を白く埋め尽くす。無色の世界に一点の彩を認めて、呂範は回廊を行く足を止めた。降りしきる雪の中、無造作に寝転がるのは紛れもなく主君の姿、ひとつ溜息を吐いた呂範は中庭へと階を降りる。
「すごいですよ、酒の匂い」
おー、と。雪上に仰向けになったままの姿勢で、孫策が戯けたように手を振って応える。
「しこたま飲んでやったからな。どうせ強欲ジジイの金だ」
孫策は昨夜、日頃の働きを労いたいとの、袁術の饗宴に招かれていた。戻ったのは早朝、流石に酒も料理も豪勢だと話すその表情には、常のような陽気は感じられない。
「……どれくらいこうして?酔いの次は、風邪にうかされることになる」
「酔い醒ましだ、丁度いいだろ?」
「醒める前に埋もれてしまいますね、この降りでは」
傍らに身を屈めれば、孫策の体は既に半分以上埋まっていた。本来なら小言の一つも献上するべき奇行ではあったが、呂範はそうせずただ、主を覆う雪を払い除け始めた。
「窒息死する前に、探して掘り出してくれよな」
冗談めかした口調。無理に笑おうとして失敗し、決まり悪げに軽く肩を竦めると、孫策は吐き出すように呟いた。
「――もっとも……息が詰まるのは、今だって同じだけどさ」
「―――――」
投げ遣りな。あまりにらしくないその物言いに、呂範の指の動きが止まる。孫策はそれと気付いたが、言葉を切ることは出来なかった。喉元に込み上げる苦々しさを、押し留められない。
「……大袈裟な賞賛やらアテにならない口約束やら、口先だけでべらべらべらべら垂れ流しやがって……」
豪奢な衣装に身を飾る、ぬらりとした男の顔を思い出す。そのどこか嘲るような笑みも。
贅を尽くした宴。最中、何度叫んでしまうと思ったか、知れない。
熱い塊を、酒で一気に呑み込んだ。愉しめる筈のない酒、杯を重ねる程に体内で淀んでいくようで。吐き出すことの出来ない憤りに身体が――心が痺れる。
「……伯符どの」
「九江、廬江……次は何処だ?―――ふざけるな…っ」
太守に、と。
反古にされた約束が惜しい訳ではない。そもそも始めから信用などしていない、だから。
何より腹立たしいのは。
真意も誠意もない、空虚な。そんな言葉をただ、黙って聞いているしかない――自分。
「――――そんなくだらないもんが、山みたいに積もってさ」
掌を、つうと伸ばして。孫策は舞い落ちる雪を無造作に捉えた。強く握り締める。
「そのまま埋もれて動けなくなって。いつか、息も出来なくなるんじゃないかって……不安になる」
力ない笑み。痛い程の自嘲はそれでも、一瞬で消えて。
「――くそ!」
仰向けになっていた身を翻しざま、孫策は震える拳を思いきり雪面に叩きつける。絞り出すように叫んだ。
「そんな訳にいかないのに。そんなの、承知出来る訳ないのに…っ!」
瞳には、自らを焼き斬り刻まんかぎりの激情。或いは自責。
父から受け継いだ意思と誇り。夢が望みが、確かにこの胸に在る筈。なのに。
ここから、抜け出すことも出来ない、自分。
手応えのない日々。無力感。もがく程に、絡め獲られるようで。
このままいつか、もがくことすら出来なくなるのか。
そうして何も、感じなくなるのか。
それが――怖い。
「…畜生」
白く濁る空。
雪は降り積もる。容赦なく。
抗うことすら、虚しく感じる程に。
「畜、生っ……!!」
誰か。
答えてくれ、俺は。
俺達は、ここまでなのか?
「―――――…」
何度も繰り返される自罵に。瞳を閉じ、身じろぎ一つせず沈黙していた呂範だったが、やがてそれがくぐもり聴こえなくなると、静かに唇を開いた。
「……初めて、長江の流れを目にしたとき」
ゆったりと諭すような、それでいて決して押し付けがましく聴こえることのない彼特有の話し方。その声色は常通りに深く穏やかで、孫策の憤激を少しずつ、確かに和らげていく。
「あまりの力強さに、圧倒されました。まるでその流れに、意志すら宿っているようで」
「…それが」
何、と。話題の急な転換に逸らされた態で、顔を上げた主君の訝しげな視線にふと微笑んでみせ、呂範は続ける。
「かの江の水源は遠く西域――巴蜀を超えて、遥か崑崙の山峡にあるとか」
そこは伝説の地、星宿海。
遠くを見晴るかすように、呂範が瞳を細めた。
「雪と氷に閉ざされた聖山の。たった一滴の雫こそが、全ての源となる――」
「子――」
軽く目を見開き。見上げてくる孫策の、傷付くほどに強く握り締められた拳をとると、呂範はそっと開かせる。
「あ…」
その掌は僅かに濡れて。雪に反射した光が、眩しく照らす。
かつて、結晶であったもの。
身体を、心を。
全てを凍てつかせると思わせたそれは、今はもう温かく――熱く。
「……解けない雪など、在り得ませんよ」
息を呑み、掌を見つめる相手に呂範が続ける。やはり静かな――確信に満ちた、口調。
「貴方の内部
「…子衡」
「今は、ひと掬いの雫でも。いつか必ず、龍となるのだと――これは私の、勝手な思い込みですか?」
「――――――」
逸らすことなく、真っ直ぐに向けられた視線。それは強く。孫策は言葉もなく、その瞳に惹き込まれた。込められた思いが、伝わる。
信じていると。
この中華を。無尽に駆ける、その時を。
「いつだって。明けない冬なんぞ、ないからな」
背後に響く声。雷に打たれたように固まっていた孫策が、はじかれて振り返る。いつからそこに居たのか、愈河が腕を組んで立っていた。
「伯海…」
「海へと、続かない川も。俺達が、いつまでも足止めされてやる義理も――ない」
軽い足取りで、うつ伏せに寝そべる主君へと歩み寄る。薄い笑みを浮かべた鋭角な唇に、不敵な台詞を乗せて。
「龍だろうがなんだろうが、突破口
「わっ…ぷ!!」
そこで一旦言葉を切ると。どこか呆けたように、顔だけ持ち上げた格好の孫策の頭を、愈河が勢い良く雪上に叩き落とす。予期せぬ行動に、無防備な孫策の顔は半ば以上、まともに埋まった。
「な、に…っ!」
一瞬、何が起きたか理解出来ずにいた孫策が我に返り、頬を高潮させて抗議するのに。そのすぐ正面、襟元を掴んで引き寄せた愈河が、挑むような瞳でにっ、と笑う。
「――お前は。そこで春が来るまで大人しく、冬眠しているつもりなのか?」
「―――――!!」
ただ、嘆いて。与えられるものを待つと?
そんなのは―――真平だ。
「――っらぁ!」
「!」
突然。
呪縛が解けたように、沈黙を破る奇声を発したかと思うと、孫策は再度、顔面を雪中に埋めた。今度は自分で、思いきり。
「何だ、悪酔いか?」
「眠気覚まし!」
流石に虚を突かれた――というか呆れた――ような愈河に、噛みつくように孫策が応える。持ち上げた表情は明るく、声音には強い意思が漲っていた。自分に言い聞かせるように、はっきりと言葉を紡いでいく。
「何か。今の俺に、やれることはある筈なんだ。寝てる暇なんて、ない」
――そうだ。眠っていることなんて出来ない。出来る筈もない。
ならば、走れば良い。
きっと簡単には出られない。それでも。
四方は壁、何度ぶつかって弾かれてもこの意思
そう信じられるから、大丈夫。
「こんな檻――使い物にならなくなるくらい、暴れてやる」
いつか。枷の重さに耐えられなくなる日は来るかもしれない。走れなくなる時が。
それでも。
それは決して、今じゃない。
ならば――走れ。そして必ず。
「そんなことは、解っていた筈なのにな。――悪い、もう平気だ」
霧の晴れた瞳に生気を宿して。少し気恥ずかしげに、孫策は笑ってみせる。そんな主君に、対照的な二種の笑みが応えた。
「いいえ。珍しいものを、見せて頂きました」
「この分だと、今夜も雪だなあ」
「だ〜〜っもう、黙れってば!!」
食えない部下達の揶うような物言いを、憮然として遮る。それは上気した頬や込み上げる笑みを誤魔化す為だったのだけれど、果たして成功したかどうか。
――共に居てくれて、良かった。
口には出さない。――この上何を言われるか、わかったものではなかったので。
「なんかもう、すっかり醒めたな。飲み直すぞ!」
仕切り直しだと。相手の意向も聞かずに勝手に決めて、孫策は自室へと踵を返した。振り返りも遠慮もしない、その口調も背中も足取りも、既に常の通り。
二人の青年は、どちらからともなくふと顔を見合わせ、小さく笑った。
そうして並んで歩き出す。主君を追って、ゆっくりと。
「謹んで、お相手致しましょう――」
いつの間にか、雪は止んで。
確かに、春が近付いていた。
珍しくヘコむ孫策かわいいな、とか自家発電余裕なわたし勝ち組(笑)
憤激やら怒りやら挫折感やら不安やら、袁術期はやっぱり相当しんどかっただろうなぁと。
そんな中で「苦楽を共にした」呂範や愈河との絆や連帯感を書きたかったのです。
うーんやっぱり策+お兄ちゃんズ好きだわー!