初 春 月 * 一 月

「――は…」
 身を斬るような乾いた風が、容の良い唇から微かに零れる吐息を浚う。
 意識を掻き乱すのは抱き竦める長い腕、頤を捕らえる冷たい指、――熱い唇。
「……ん、っ……仲――…」
 思わず溺れてしまいそうになる心と躯おのれを叱咤しつつ。振り上げられた白い手首はしなやかに翻り、高らかな衝撃音を生じさせた。
「――阿…呆」
 熱い余韻に乱れた息を整えながら。曹丕は、僅かに身を引いた相手の指から逃れた。そのまま屹と睨み付ける。
「こんな処で……誰かに見られでもしたら」
 どうするつもりだと小声で、鋭く詰る主君に。
「…申し訳ありません」
 常通りの――叩かれて赤い頬以外は、だが――無表情さを保ちつつ、司馬懿は生真面目に一礼した。
 中庭の白雪も眩しい白昼堂々、政庁の回廊などという場所での突然にして強引、無礼極まりないこの振舞いである。曹丕の叱責は当然かつ必然であり、何より切実なものであったから、司馬懿も素直に詫びるしかない。だが、その後が良くなかった。
「衝動を抑制出来ませんでした。――どうしようもなく」
 確かにそれこそが、司馬懿の司馬懿たる所以であるかもしれないのだが。
 釈明と呼ぶにはあまりにも泰然とした口調で、彼は淀みなく続けたものである。

「貴方が欲しくて」

「―――――――ッ……だから、そう云う事を……っ!!」
 少しの臆面も反省の色もなく。
 そんな台詞をさらりと吐いて平然としている目の前の男に何を言っても無駄と判断したか、激昂しかけた曹丕は、自制に一瞬の沈黙を要した後、肩で深く息をついた。或いはあともう2、3発、分別を欠く恋人に制裁を加えてやるべきだったのかもしれないけれども。その白皙の頬を僅かに色付かせながら、曹丕が脱力したように呟く。
「…………信じられない奴だな、お前…………」
 なんとかしてくれとは、溜息混じりの曹丕の台詞。
 こんな風に。折に触れて披瀝される司馬懿の熱情的で直截な言動に、曹丕は未だ慣れることが出来ないのだった。相手の性格上、それが衒いも誤魔化しもない本心からの言葉であるのは明白で――余計に、始末が悪い。
「すみません」
 得体の知れない生物でも眺めるような表情をみせる曹丕に、思わず苦笑を洩らす司馬懿だ。我ながらあさましいものだと、自覚はしている。
「昔は、こうではなかったのですがね」
「何だ、弁解のつもりか?」
「誰にも特別興味など無くて―――妻にしても、出来た女だとは思いますが、強い欲望など感じたことはなかった……」
「……仲達?」
 弁解、というより。独白に近い呟きに、軽く首を傾げた曹丕の細い眉が怪訝そうに顰められた。そんな恋人の仕草に、眩しそうに瞳を細めて、司馬懿は続ける。
「――自分でも、驚いていますよ」

 ――今でも信じられない。
 こんなにも。誰かを欲する、自分が居る。

「感謝、しています。貴方にも―――運命にも」

 魔術のように、私を変えた。
 この世の何に換えられる筈もない、狂おしく愛しい、至高の存在。
 貴方に邂えた、その奇跡に。
 ――柄にも無いと、貴方は笑うかもしれないけれど。

「………仲」
 まっすぐに、瞳を見つめて。
 ひそやかに強く響く司馬懿の言葉に、立ち尽くす曹丕はどこか呆然として見えた。いつになく頼りなげな瞳に、困惑の色が揺れる。探るような声は微かに震えて――それ以上は続かない。
 沈黙の時が過ぎて。幼い迷い子のような表情はそのままに、曹丕はびくりと身体を震わせた。長い回廊の遠く背後、小さく聴こえる人の声。こちらへ向かってくる。
「……邪魔が入りましたね」
 一瞬。苦笑ともつかない、微妙な表情をしてみせると、司馬懿は注意の逸れた主君の無防備な肩を抱き寄せた。耳元で、低く囁く。
「残念ですが。――続きは、今宵にも」
「……な」
 身体を離しざま、片頬にそっと触れていった唇の感触に。
 呪縛が解けたように、曹丕が我に返る。思わず、声が高くなった。
「――知るか、阿呆っ!!」
 些かのきまり悪さを含んだ詰難に、司馬懿は短く小さく、それでも確かに声に出して笑った。そのまま完璧に拱手してみせ、慌ただしく背を向けた主君の後姿を見送る。普段の彼を知る者なら例外なく当惑するに違いない、柔らかな微笑をその瞳に湛えて。


 自分でも、信じられない程の。
 想像すら出来なかった想いに、驚き戸惑う日々はもう過ぎた。


 愛している。
 今はただ、心のまま。

短編小説シリーズ「歳華集」。月の名称にちなんだ短編を一作ずつ書いていく…予定!(笑)
第一弾はやはり懿丕で。この直裁さが司馬懿の一番の武器です。
「春」には「男女間の情欲」と云う意味もあるとのことで。
この二人にとって、きっと本当の意味での「初春」なんだよなぁとか思いつつ。