その時 を

待ち望んで居るのだとしても。


allegorism

「虎が逃げた」

 何の、前触れも無く。
 唐突にも非日常な台詞が、無造作に投げて寄越される。吐息に雑じる酒精の芳醇、けれど幾ら飲んでも酔わぬ性だと云う若き皇帝の言の葉は概して謎掛けの如く、其れを読み解く作業が実は、嫌いでは無い。
「―――何の御話です」
「藝人らが見世物として養っていた虎だ」
 此方の疑問は予想通り、素気無く逸らされた。ならばまずは弁辞なるこの主の、気が済むまで黙して待つよりあるまい。鋭角的に流れる鼻梁、射抜く様な瞳は今は軽く伏せられて。縁取る睫の豪奢な長さを知ったのはさて、何時の事だったか。
「長く飼われて、人の世話にも慣れていた。狎近、か」
 対座した距離、無遠慮な視線を気取られたのかも知れない。瞬間向けられた不穏な一瞥を、僅か目礼して往なす。寛恕と云うよりはむしろ無感動たる故、此方の非礼は殊更咎められずに。
「或る時、偶然に檻が開いた。…自由になった虎はまず、何をしたと思う」
「人でも襲いましたか」
「喰らったそうだ。日頃最も良く、虎の面倒を見ていた男を」
 差し献じた杯を、一息に干す白い咽喉。如何やら城下での騒動らしい、顛末を語り終えた主は其処で初めて、薄い笑みを刻んでみせた。
「是の話。如何読む、仲達?」
「……備えの甘さも対処の遅れも、まずは笑止」
 量られている。何かを。恐らく全てを。
「ですが不運ではありますな。檻の傍に在る機会も多かろう、世話係としては致し方無き事でしょうが……相手は畜生、感荷も報恩も無に等しいかと」
 恰も白刃の上に立つ様な。其れはこの傍に在れば常に、齎される感覚。
 何気無く供される言葉にどんな裏が潜むのか、或いは徒の戯言か。意図を真実読み切れていると、この相手に対している限りは何故か、断言する事が困難だ。
「木石め」
 無難にも興趣に欠ける返答をやはりと云うか、無下に斬捨てて。空杯を置いた漆几を、しなやかな手首が押し除ける。彼此を隔てる障壁ものを失くして刹那、昂る鼓動。
「偶然では無い。選んで襲ったのだ、その男を」
「敢えて狙った…と?」
「獣が情懐を欠くと誰が云える?――虎は男を憎んでいたか、或いは」
 滔滔と詠う聲、鼻腔を掠めて溶ける馨り、それから。

「殺めたい程に酷く 執着あいして居たのだろう」
「――――――」

 ……誘う様に嘲笑わらう、濡れた唇。
 髪が触れる程の距離で、視線が絡まる。
 下らぬ戯言と。詩人の埒無き感傷と聞き流す事が出来無いのは、かの瞳が如何仕様も無く醒めて居るからだ。互いの熱を直に感じる、こんな時でさえ。
「虎では無くて。飢えた狼なら、如何するかな」
 何処か、甘い。耳元で囁く、睦言めいた声音。
「誰を、何を裂き屠るか。狡猾な獣だ、囲いなど自ら壊すやも知れぬ」
 咽元をゆるりと這い上る指に、背筋が粟立つ。
 其れが悪寒か快楽なのか、咄嗟に判断が付かない。
 読んで居る。読まれて居る。
 既に識る筈の事実に、探る様にひかる瞳に今更、足元が揺れた。
「――――畜生の心意など解りませぬが」
 欺けるとは思わない。
 この眼差しも、己の野心も。
 語る言葉に真実など期待しない。けれど。


「甘美な餌を享く狼ならば恐らく――檻を破りは致しますまい」

「……憶えておこう」

 弄う様に蔑む様に、哀れむ様に。
 艶めく笑みを深めた唇が褒美とばかりに、重ね与えられる。
 貪る様に噛み合えば、獣心さえも不意に、理解出来たが如き錯覚。
 所詮は人も、徒の畜生に過ぎぬのか。ならば成程、虎にも思念は有るのだろう。
 柵越しに与えられる、遠い温もり。最早耐え難かったのかも知れない、例え其れで全てが終わるとって居たとしても、それでも。

「檻を、出た獣は。討たれ斃れたので御座いましょうか」

 愚かしく眩んだ脳髄が、詮無き幻影を夢想する。
 或いは空虚な程に自由な広野に、野垂れて果てたか。
 若しくは喰い込んだ其の枷から終に、逃れ得る事が出来たのか。
 其れは遍く獣の本能よろこびだろうか、
 捕え絡まるものを噛み裂く、其の愉悦は。

 ならば。

 其れならば、



 私は、何時迄。





「知らぬ よ」





 知らず。軋む程にきつく、掻き抱いた背中。
 応える声はいっそ残酷なまで、静謐に響いて消えた。

お互い誰より深く理解出来るのに、そしてかなり執着しあってるのに全然ラブじゃない。
何時どちらが斬り付けるか、みたいな関係性が希望です。
冷静に巧妙に確実に奪う筈で、けれど不意に訪れる衝動に愕然としたり、
束の間見せかけの平穏をもまた、手放し難くなっている
自分に気付いて揺れる司馬懿が書きたかった次第。如何でしょうか。
因みにココは狼=司馬懿で(@狼顧)。その場合曹丕は餌かつ檻。