「あ〜〜!やっと着いたぜ、懐かしの我が家っ」
大きな荷物を肩に、タクシーへ手を振った本多は、小じんまりしたフラットの前で思い切り伸びをした。
イタリアプロバレーチームのトライアウトに挑戦すると決意して、本多が日本を出てからもう2年になる。歴史こそ浅いが、若手の勢いに定評がある中堅チームへ入団を果たした本多は、2軍でプレイ経験を積み、最近では公式試合での一軍ベンチメンバー入りも定着してきていた。持ち前のバイタリティと人懐こさですっかりチームに溶け込んで、その才能と情熱を存分に発揮する環境も整いつつある。スターティングメンバーとしてチームに貢献する日も近いだろう。
そんな訳で、遠征や合宿でイタリア各地を飛び回る本多は、自分の部屋に帰れないことも多い。そもそも住み始めてまだいくらも経っていない街は、住み慣れたとは言い難いものだ。それでも帰ってきたという感慨を覚えるのは、ここで待っていてくれる相手がいるからだ―――うっかり緩んだ頬を咳払いで誰にともなく取り繕いながら、本多はドアの鍵を開けた。
「帰ったぜ、克哉―――…っと」
廊下から続くリビング。この小さな貸家を二人でシェアしようと決めた時、最初に買った大きめのソファに掛けたままの姿勢で、眠っているらしい同居人を本多は認めた。テーブルの上にはグラスとほとんど空のブランデーボトル、広がった紙の束。グラフがいくつも並ぶそれは、プレゼンの資料だろうか。
(克哉がうたた寝とか、珍しいな)
本多は出来るだけ息を潜めて近付くと、俯き加減の顔を覗き込んだ。考えてみればこんな風に、寝顔を拝んだ機会はほとんどないかもしれない。朝は大抵克哉の方が先に起きていたし、同じベッドで過ごす夜、先に意識を手放す羽目になるのは本多の方だった。
(――って、いっつもこいつが無茶苦茶やりやがるからだろうが、くそっ!)
脳裏に蘇ったあれやこれに思わず赤面して、本多は毒づいた。今ではその行為が齎すものが痛みだけではないと、充分に思い知らされている本多ではあるし、あれはあれで克哉なりの恋情めいたものが感じられない訳でもない。それでも健康な一成人男子として、同じ男に毎度いいように弄ばれている(と思わざるを得ない)現状には、異議を唱え続けておくべきだろうと、本多は思う。しかしそんな本多の胸中など、端整な寝顔は全くお構いなしだ。ガウンに包まれた胸が静かに、規則正しく上下しているのがわかる。
(流石のこいつも、ちょっとは疲れてんのかな?)
プレゼン資料とおぼしき書類には、英語とイタリア語が細かく書き連ねられている。営業マン時代に培ったコミュニケーション能力の賜物か、イタリア語会話はほぼマスターした本多だが、読み書きの方はまだまだ覚束なかった。本多がチームメイトと意思の疎通を図る分にはそれで全く問題ないが、MGN本社の意向を受けてイタリア現地企業との折衝も手広く任されているらしい克哉にすれば、そんな悠長な事態ではない。本来の意味を取り違えかねない曖昧なやり取りなど、ビジネスの場面では許されないからだ。どんな困難な局面も完璧に打開してのけるのが当然、といわんばかりの克哉の態度が揺らぐところなど想像出来ない本多ではあったが、こんな風にいささからしくない姿を前にすると、やはり心配にもなる。
(……どうせ、俺に弱音みてえなこと言ったりしねぇんだろうけどよ、お前は…)
大丈夫か、などと聞いてみたところで、いつも通りの皮肉で手痛く応酬されるのは確実だ。それに克哉の全てにおいて自信に満ちた鮮やかな手腕を見ていると、この男には本当に不可能などないのだと、簡単に信じてしまいそうになる。――けれども。
本多の指がつと、克哉に伸びる。さらりとした感触。長い前髪が掻き分けられ、眼鏡の奥の睫毛が落とす翳が露わになった。常に底知れぬ光を宿した強い瞳が伏せられると、圧倒的なまでの倣岸さは薄れ、繊細な造作ばかりがよく目立つ。
(…こうやってみると、昔と同じ顔なんだよな、つくづく)
それはまるで自然に、惹き込まれるように。近付いた距離は幽かな寝息さえ直に感じる程で、本多の胸をひどくざわめかせた。
(……「克哉」…)
いつでも優しく柔らかで、そしてどこか切ないような笑顔を思い出す。今の克哉にはひどく噛み合わない。白皙の肌を彩る、銀縁の眼鏡に対する違和感が薄まる一方で、本多の中でいつしか遠くなりつつある、懐かしい面影。
…否。
他人に遠慮ばかりで何も言わないその笑い方を、歯痒く見ていた頃から既に「克哉」は遠かった。隣にいるのに、本当はそこにいないのだと、本多は何となく感じていた。差し伸べた手は、何度も空を掻いた。……哀しかった、のかもしれない。当時は自覚していなかったし、今となってはもうよくわからないのだけれど。
「――お前は『いる』から…な」
思わず零れた言葉に導かれるように、本多は指を滑らせた。眠りの邪魔をしたい訳ではなかったが、頬を掌で包んでそっと触れてみる。反応する様子がない克哉の、すべやかな体温に本多は安堵した。
突然眼鏡をかけるようになったあの日から、克哉はあらゆる意味で(勿論、悪い方の意味でも)強烈な存在感を誇示し続けている。そんな克哉の考え方に本多は何度も反発したし、以前には考えられないような大喧嘩も繰り返した。その度に本多は驚き、腹を立て、傷付いて――…或いは傷付けた、のかもしれない。しかし本多にとっては、与えられる衝撃も痛みも何もかもが、克哉が目の前にいるという証だった。本気で怒りをぶつけ合い、思わず殴りかかりたくなる時も……実際に殴った時でさえ、心のどこかには一種の喜びがあった。その瞬間は佐伯克哉という存在そのものと、間違いなく向き合えていると思えたからだ。そしてそれは自分の思い違いではなかったと、本多は今でも信じている。
確かに、克哉は変わった。まるで別人のように。この自分こそが本当の「自分」なのだといつか、克哉は言った。ならばそうなのかもしれない。現に、かつてはよく知っていた筈の「克哉」の名残にこそ、今の本多は驚きを感じている。それでも。
例えば他愛もない会話の一言。ふとした仕草。気紛れに優しいキス。不意に感じるくすぐったいような瞬間にきっと、「克哉」が融けている。無防備に眠る克哉を通して、かつて何もしてやれなかった「克哉」に―――いや、確かに「克哉」でもあり、そして他の誰でもないこの男に、真直ぐ触れているという実感が嬉しかった。
「いいけどよ……お前、寝る時も取らねえのかよ、眼鏡…」
胸を衝く想いに、不意に涙が出そうになる。本多はわざと不機嫌な悪態で、そんな自分を誤魔化した。外してやろうと動いた手はけれど何となく、そうする気にはなれなくて。
代わりとばかり。安らかな気配を湛える唇へと、本多は柔らかく口付ける。悪ふざけめいた、それでいて何かを確かめるようなキスを解く本多の頬を、銀色の細いフレームが軽く掠めた。その硬質で少し、冷たい触感。ああ、どうやら自分はそれが嫌いではないらしい―――本多は唐突に自覚する。キスはおろか、激しいセックスの最中でさえも、克哉が眼鏡を外すことはないというのに何とも今更な話だ。苦笑しながら腰を上げ、もうしばらくはこのまま寝かせておこうと、上掛けを取りに寝室へ向かう。
「……眼鏡をかけたお前だって、たまには俺を頼っていいんだぜ?」
振り返ってかけた言葉に、返事はない。
よく眠り込んでいるのだからそれは当然で、むしろここで起きられたら中々に厄介な事態になりそうだとわかっていて、それでも…ほんの少しだけ、残念な気もして。小さな苦笑をもうひとつ、肩をすくめてみせてから、本多は静かに扉を閉めた。
「―――可愛いことを…言ってくれるじゃないか」
図体の大きな男がそれで精一杯に忍んでいるつもりだろう、大股の足音が遠ざかるのを見計らって、克哉は一人呟いた。あれだけべたべたと触っておきながら、こちらの目が醒めないことに疑問すら抱かない、大雑把な神経がいかにも本多らしい。それでも我に返った今頃は、気恥ずかしさにさぞかし赤面しているに違いないと、容易に想像できる姿が可笑しかった。
(さて、どんな顔をして戻ってくるやら…じっくり鑑賞してやるのも、一興だな)
これをネタに突付いてやれば、当分は楽に愉しめそうだ。容の佳い唇に一瞬、タチの悪い微笑が閃いた。言質をちらつかせて本多を「可愛がる」手管など、何通りでも脳裏に浮かぶ。まずは、おあつらえ向きに毛布でも抱えてやってくるところを、出会い頭に押し倒してしまおうか。でなければ。
不穏な計画をいくつも弄んでいると、寝室の方から何やら、大きな音が聞こえてきた。多分、下ろした荷物にでも躓いたのだろう。慌て過ぎだ、馬鹿。今度ははっきりと声に出して、克哉は笑う。
(……まあ、そうだな)
たまにはこのまま、見逃してやるのもいいかもしれない。
今日の気分はなかなかに悪くない。かなり眠いのも本当だし―――…やれやれ、俺も随分と優しくなったものだ、なぁ本多?
出て行った時よりも少し、乱暴な足取りが近付く気配。ゆるりと満足げに瞳を閉じて、克哉はその身を深くソファへ沈めた。
…鬼畜とか云いつつ妙にほのぼのしてますがこのひとたち。
と云う訳で本多ルートED後イタリア生活。CDでホントに一緒に暮らしてて吹きました(笑)
眼鏡本多はじゃれたりケンカしたり互いに狙いあったりして
常にリベンジ挑みつつもさっくり負けっぱなしやられまくりの本多と、
何だかんだで実は内心ちゃんと本多ラブな眼鏡だったらいいと思うよ!
(眼鏡は全開でデレじゃない方が可愛い)
友人兼ライバルの延長みたいな男×男テイストが好きなカプであります、
と云うか書いてて自分の本多愛っぷりに驚いた(笑)